テイラー本、第4~6章。ちゃんと説明するのは結構めんどうくさい。
第4章と第5章では第2章の最後に示された三つの命題のうち「ほんものという理想について複数の人間が理にかなった議論を行うことは可能である」という命題が検討されるが、ややわかりくい議論の整理がなされているものの、基本的には、第4章で「単なる欲求や憧れよりも高尚な何かから流出する要求を無視すると、自分らしくありたいという自己達成主義は自滅する」ということが示され、第5章で「他者との絆とか他者による承認を無視すると、自分らしくありたいという自己達成主義は自滅する」ということが示されている。そしてテイラーは、この両者によって「自分らしくありたいという自己達成主義は、世界との関わりや他者との対話に対して開かれており、そのかぎりにおいては、断じて道徳的主観主義ではない」ということを示そうと試みている。
□第4・5章の狙い 「自己達成」には非主観的な「道徳的地平」と「他者の承認」が不可欠だということを示すこと
以下では、ほんものという〔理想の息づく〕文化がひろがりゆくなかで、この〔我々のアイデンティティの形成と維持が生涯にわたって対話的であり続けるという〕核心的事実が受け容れられてきたことを指摘しようと思います。しかしさしあたりは、まず一方でこうしたわたしたち〔人間〕の条件の対話的な特徴をとりあげ、他方でほんものという理想に本来備わっている要求をとりあげます。そしてそこから、より自己中心的で「ナルシシズム的」な現代文化の様式が明らかに不適当であることを示してゆきます。もっと詳しく言えば、わたしの示したい点は次のようになります。(a)わたしたちには他者とのきずなが要るということを顧みずに、あるいは(b)人間誰しももっているような欲求や憧れ以上のものから、もしくはそれらとは別のものから流れ出るさまざまな要求を顧みずに、ただ自己達成だけを選び取るような文化の様式は自滅的だということ、すなわちそうした流儀は、当のほんもの〔という理想〕自体を実現するための諸条件を破壊してしまうということです。(49)
ほんものという理想に照らすならば、たんなる道具として〔他者との〕関係性をつくりあげることは、自分を愚か者にするような振る舞い方です。そんなやり方でも〔自己〕達成を追求できるという考えは幻想にすぎません。そこには選択を超えたところにある重要性の地平を承認しなくとも自己選択はできるという考えに通じるものがあります。(74----第五章)
□現代文化特有の「自己達成」主義には「ほんものという理想」への可能性が含まれているが、現状では「道徳的地平」「他者の承認」の重要性が無視されており、その結果「ナルシシズム」という「理想の陳腐化」が蔓延している。
これまで、いわゆる「ナルシシズムの文化」をどう見たらよいかについて示してきました。「ナルシシズムの文化」とは、自己達成を人生の主要な価値とする一方、〔自己の〕外部からやってくる道徳的な要請や、他者との真剣な関わり合いはほとんど認めようとしない考え方が広まっている〔事態の〕ことでした。この二つの点で自己達成の概念は実に自己中心的なものに思われ、それゆえに「ナルシシズム」ということばがあてがわれたのです。〔これに対して〕わたしは、この文化にはある倫理的な希いが、つまりほんものという理想が部分的にせよ反映されていると見るべきであり、しかもその理想それ自体は、自己中心的な姿をとることを許容するものではないと述べてきました。この〔ほんものという〕理想に照らすならば、〔自己の〕外部からやってくる道徳的な要請や他者との真剣な関わり合いを認めないということはむしろ、この理想からの逸脱として、この理想の陳腐化として現れてくるのです。(76----総括----第六章)
4.逃れられない地平----自分を超えたところにある重要性の地平を無視すると、自分らしくありたいという理想は、単なるナルシシズムに堕落し、自己崩壊する。
□「自分の外部からやってくる道徳的な要請=道徳的地平」----「自分らしさ」を考えるときに、「3732本の髪の毛をもつ人」という自己理解と「世界一見事にベートーヴェンのピアノソナタ29番を演奏できる人」という自己理解は等価ではない----後者の方が「自分らしさ」の根拠として強い説得力を持つのは、後者が自己の主観性を超えた「重要性の地平=道徳的地平」と関わっているからである。
ものごとが重要性を帯びるようになるのは、理解可能性という背景に照らしたときです。これを地平と呼ぶことにしましょう。そうすると、自分自身を定義するにもそれを意味あるものにすべきならば、ともかくもその地平を隠蔽したり、否定したりするわけにはゆかないことになります。というのも、その地平に照らしてこそ、ものごと〔たとえば「選択すること」----引用者〕は重要性をもつようになるからです。そうした〔地平の〕隠蔽や否定は自滅的なやり方なのですが、主観主義に染まったわたしたちの文明では、つねにそのやり方がまかり通ってきました。よくあるのは、複数の選択肢から選択することの正当性を強調するあまり、気づいてみると選択肢から重要性を奪い取っていたという場合です。たとえば、標準とは異なる性的指向を正当化するディスコースなどがそうです。そこでひとびとが論じようとするのは、異性愛の一夫一婦制だけが性的満足に達する唯一の方法ではないということ、したがって同性愛の関係に惹かれるひとたちにしても、自分たちが劣った道、価値の低い道に踏み込んでしまったなどと感じるべきではないということです。この議論は、ほんもの〔という理想〕の近代的な理解とぴったり一致します。ほんもの〔という理想〕における差異やそのひとだけの自己のあり方といった概念、多様性の受容といった概念とうまく調和するのです。……
ところが、ときとしてこのディスコースは、選択それ自体の肯定へとすべり落ちてしまうことがあります。どの選択肢にもひとしく価値がある。それは、どの選択肢も白由に選択されるからだ。つまり価値を授けるのは選択〔それ自体〕なのだ、というわけです。〔何らかの道徳的地平が存在するという前提を否定し、選択するということ自体に絶対的な価値を認める「根源的選択 radical choice」というサルトル的発想----テイラーはこういう発想を安易な決断主義だとして批判している----引用者。〕ここで効いているのは、穏やかな相対主義の根底に横たわる主観主義の原理です。この原理は、〔選択に〕先だって重要性の地平が存在していることを暗黙のうちに否定します。最初に重要性の地平があって、価値のあるものとそれほどでもないもの、さらにまったく価値のないものが区別され、それから選択が行われるにもかかわらず、主観主義の原理は、重要性の地平が前もって存在することを否定するのです。
……なるほど、ジョン・ステュアート・ミルが『白由論』で主張するように、わたしの人生が〔わたし自身によって〕選ばれたものであるということは大事かもしれません。しかし、数ある選択肢のなかに意味のある選択肢、他の選択肢よりも重要な選択肢がなければ、自分で選択するという観念自体が陳腐なもの、筋の通らないものになってしまいます。理想としての自己選択〔の観念〕が意味をなすのは、ひとえに、他の何にもまして重要な問題が存在するからにほかなりません。昼食のとき、ひなどりではなくステーキとポテトフライを選んだからといって、自分は自己選択をする人間なんだと主張するわけにはゆきませんし、ましてニーチェを受け売りして、自己創造をとやかくすることなど許されません。どの問題が重要なのか、それを決めるのはわたしではありません。もしわたしが決めるのだとすれば、どの問題も重要ではないことになるでしょう。しかしそうなれば、自己選択という理想それ自体が、道徳的理想として不可能になってしまうのです。(52-56)
それゆえ自己選択という理想は、自己選択を超えたところに別の問題、重要性の問題があることを前提にしています。自己選択という理想は、それ自体だけでは理想たりえません。なぜならその理想は、何が重要なのかが問われる地平を必要とするからであり、そうした問いこそが、自己創造が重要になるような観点を定義するのに一役買うからです。……
人生の意味を追求し、自分自身を有意義な仕方で定義しようとする行為者は、重要な問いの地平に生きなければなりません。……自己を超えたところから発せられる要求に耳を塞ぐならば、ものごとが重要性をもつための条件を隠蔽することになり、陳腐化を招くのは必定です。ひとびとがこうした状況で道徳的理想を追求する場合、そのように自己へと引きこもることは、自分で自分を愚かな状態に陥れるようなものです。自己へと引きこもることで、理想を実現する条件、そのもとでこそ理想が実現されうる条件を、みすみす破壊してしまうのですから。
言い方を変えれば、重要なことがらを背景にして〔つまり道徳的地平の存在を前提として----引用者〕、その背景と照らし合わせることでしか、わたしは自分のアイデンティティを定義できないのです。しかるに歴史を、自然を、社会を、そして連帯の要求をも考慮の対象からはずし、自分自身のうちに見出されるもの以外はいっさい目もくれないようになれば、重要なことがらの候補となるものをあらかた摘み取ってしまうことになりましょう。歴史でも自然の要求でもいい、人間同士のニーズでもシティズンシップの義務でもいい、神のお召しでもいいし、ここに挙げた以外の何かでもいい、とにかくそうしたものが決定的な重要性を持つ世界に生きるとき、そしてそのときにだけ、わたしは自分のアイデンティティを、それも陳腐ではないアイデンティティを、自分の力で定義できるのです。ほんもの〔という理想〕は、自己を超えたところから発せられる要求の敵ではありません。ほんもの〔という理想〕は、そうした要求を前提にしているのです。(56-58)
5.承認のニード----他者との絆、他者による承認を無視すると、自分らしくありたいという理想は単なるナルシシズムに陥り、自滅する。
【参考】「他者による承認」?----テイラー「承認をめぐる政治」より
現代の政治の多くの要素は、承認 recognition の必要、時にはその要求をめぐって展開している。承認の必要は、政治におけるナショナリズムの運動の背後の推進力のひとつであると論じることができる。そして承認の要求は今日、いくつかの形態のフェミニズムや「多文化主義 multiculturalism」の政治と今日呼ばれるものにおいて、少数派ないしは「従属的」集団を擁護するために、いくつかの仕方で、政治の全面に登場している。
後者〔フェミニズムや多文化主義〕の諸事例における承認の要求は、承認とアイデンティティの間に結びつきが想定されることによって、緊急性を帯びたものになる。ここではアイデンティティとは、ある人々が誰であるかについての理解、すなわち彼らが人間として持つ根本的な明示的諸性格についての理解といったものを意味する。ここには次のような想定が存在している。すなわち、我々のアイデンティティは一部には、他人による承認、あるいはその不在、さらにはしばしば歪められた承認 misrecognition によって形作られるのであって、個人や集団は、もし彼らをとりまく人々や社会が、彼らに対し、彼らについての不十分な、あるいは不名誉な、あるいは卑しむべき像を投影するならば、現実に被害や歪曲を被るというものである。不承認や歪められた承認は、害を与え、抑圧の一形態となりうるのであり、それはその人を、偽りの、歪められ切りつめられた存在の形態のなかに閉じこめるのである。(テイラー「承認をめぐる政治」チャールズ・テイラーほか『マルチカルチュラリズム』岩波書店、1996、37-38)
□アイデンティティの形成と維持に不可欠な「他者がわたしたちに与える承認」とその歴史的変化
さきにわたしは、わたしたちのアイデンティティが他者との対話のなかで、いいかえれば、他者がわたしたちに与える承認 recognition と折り合いをつけたり、闘ったりするなかで形成されるさまについて述べました。ある意味、こうした事実を近代的な形で発見し明確に表現するようになったのは、ほんものといういまなお発展しつつある理想との密接な結びつきのなかで起こったことだと言えるでしょう。
……かつての階層社会では、今日なら個人のアイデンティティと呼ばれるものは専ら、そのひとの社会的な地位と分かちがたく結びつけられていました。いいかえれば、あるひとがあることがらを重要だと承認するとき、そのひとがそのことがらの意味を了解する背景は大部分、そのひとが社会のなかで占める地位やそれと結びついた役割なり活動なりによって規定されていたのです。……〔自分の〕アイデンティティを〔自分が属している〕社会から導き出すこうしたやり方を根元から掘り崩したのは、ほかならぬほんものという理想でした。この理想が出現したとき、たとえばヘルダーの時代、この理想はひとりひとりに、他の誰にも真似できない自分らしいあり方を発見するよう求めました。他の誰にも真似できない自分らしいあり方----それは定義からして、もはや社会から導き出すわけにはゆかず、〔自己の〕内面から生み出さなければなりません。
しかし当然のことながら、〔自己の〕内面からといっても〔対話からでなく〕独白から生み出されると考えるなら、〔自己の〕内面から〔アイデンティティが〕生み出されることなどありません。それはさきに論証を試みたとおりです。自分のアイデンティティを発見するといっても、〔他者から〕孤立した状態でアイデンティティをひねり出すのではありません。アイデンティティの発見とは、ときには面と向かって、ときには心のなかで交わされる他者との対話をつうじて、自分のアイデンティティを定めてゆくことなのです。そしてそうであればこそ、内面から生み出されるアイデンティティという理想の発展が、承認に対してかくも新しく、かつ決定的な重要性を与えることになったのです。わたしと他者との対話的な関係が、わたしのアイデンティティを決定的に左右するのです。
ここで肝心なことは、こうした他者〔の承認〕への依存がほんもの〔という理想〕の時代に起こったことではないということです。……かつてなら、承認が問題として取り沙汰されることなどありませんでした。社会から導き出されるアイデンティティは、誰もが当たり前と見なす社会的なカテゴリーにもとづいていたわけですが、まさにその事実からして、社会から導き出されるアイデンティティには社会の承認が組み込まれていました。[例:岡山村の濃厚な人間関係の中で規定された農家の桃男さんのところの長男の桃太郎というアイデンティティ----引用者]ところが、内面から生み出される個人的なアイデンティティ、そのひとだけのアイデンティティの場合には、そのように最初から承認を当てにすることはできません。承認は〔他者との〕やりとりをつうじて手に入れなければなりませんし、またそれゆえ、承認されないこともありえます。ですから、近代になって生じたのは承認のニードではなく、承認を求めても手に入れられないことがありうるという状況の方なのです。そしてそうであればこそ、いまになって初めて〔承認の〕ニードが認知されるようになったのです。近代以前には「アイデンティティ」や「承認」について語られることはありませんでしたが、それは当時のひとびとに(私たちの言う)アイデンティティがなかったからでもなければ、アイデンティティが承認に左右されなかったわけでもなく、わたしたちがしているように主題として取り上げるには、アイデンティティも承認も、あまりに疑問の余地のないものだったからなのです。(62-67)
□他者との関係を単なる道具と見なし、地平を無視して「自己選択」だけを絶対視する発想に対する批判
この章を始めるにあたってわたしが立てた問いは、次のようなかたちで提起できるでしょう。----自己を中心に据える生のあり方が、さまざまなアソシエーション〔自発的な結社のこと----引用者〕をも単なる道具としてしかあつかわない態度につながらざるをえないとすれば、自己を中心にすえる生のあり方をほんものという理想の観点から正当化することはできるのだろうか、と。そしてこの問いは、いまやこういいいかえることができるでしょう。----〔ほんものという理想のもとで〕推奨されるような他者と共に生きる様式には、自己を中心に据える生き方のような他者と絶縁した生き方の余地があるのだろうか、と。……
ほんものという理想に照らすならば、単なる道具として〔他者との〕関係性をつくりあげることは、自分を愚かにするような振る舞い方です。そんなやり方でも〔自己〕達成を追求できるという考え方は幻想にすぎません。そこには、選択を超えたところにある重要性の地平を承認しなくとも自己選択はできるという考えに通じるものがあります。(70-74)
6.主観主義へのすべり坂----近代的自我はどのようにして「地平」と「承認」の重要性を忘却するにいたったのか----モダニズム芸術と「ポストモダン」の「脱構築」における主観性の横溢
□「ほんものという理想」と「ナルシシズムの文化」についての小括(75-76)
□現代の「ナルシシズムの文化」をどう見ればいいか----三つの説
(1)同情的否定説:「ナルシシズムの文化」特有の自己達成の理想は立派だが、その実際の帰結はエゴイズムの文化でしかありえない
(2)否定説:「ナルシシズムの文化」特有の自己達成の理想そのものが放縦とエゴイズムの表現にすぎず、逝ってよしである
(3)葛藤説:「ナルシシズムの文化」特有の自己達成の理想には、「ほんものという理想」へと発展する可能性があるにも関わらず、そのことが十分に理解されず、結果的に単なる「ナルシシズム」に陥っている。自己達成の理想と実際との葛藤について我々はちゃんと考えなければならないし、「ほんものという理想」の可能性を模索しなければならない(テイラーの立場)。
□自己達成の理想が「主観主義=ナルシシズム」に陥る三つの「すべり坂」
(1)前近代的な村落共同体の崩壊と近代的な産業-技術-官僚社会の進展
(2)〔道徳的知性とか他者との関わりを軽視しがちな〕大衆文化の一般的傾向
(3)高級文化におけあらゆる地平を解体するニヒリズム的な美意識(82ff)
……ほんものという〔理想の息づく〕文化における逸脱についての説明は、ひとつにはこの文化が産業-技術-官僚社会のなかで生きられているという事実と突き合わされなければなりません。……
とはいえ、社会的背景によってすべてが語り尽くされるわけではありません。ほんものという理想の内部にも、〔主観主義へと〕すべり落ちてゆくのを助長する原因があります。実際、〔主観主義への〕すべり坂はひとつしかなかったのではなく、二つありました。そしてその二つ〔のすべり坂〕は入り組んだ関係に、しかも互いに矛盾するような関係にあったのです。
第一のものはこれまで話してきたような、現代の大衆文化に見られる自己達成の理想の自己中心的な様式へのすべり坂です。第二〔のすべり坂〕はある種のニヒリズムへと、いいかえれば重要性の地平というものをおよそ否定する方向へと向かう「高級な」文化の動きで、一世紀半にもわたっていまもなお続いているものです。その二十世紀的な形態の起源はなるほど〔ヴェルレーヌの〕「呪われた詩人」のイメージやボードレールの姿のうちにも見出されますが、この場合やはり最たる人物はニーチェでしょう。----もっとも、彼は「ニヒリズム」ということばを違った意味で、むしろ彼が拒否したものを指し示すために使ったのですが。この系列に属する思考の様相はモダニズムを構成するいくつかの要素となって現れ、そして今日ポストモダンと呼びならわされるジャック・デリダや後期のミシェル・フーコーのような著作家のうちに姿を見せています。
これらの思想家たちが与えた影響は逆説的です。かれらは、わたしたちが日頃依拠するさまざまなカテゴリーへのニーチェ流の異議申し立てを、ほんものという理想の「脱構築」にまで、ひいては自己の概念そのものの「脱構築」にまで推し進めます。しかし実のところ、あらゆる「価値」は創造されたものだというニーチェ流の批判は、人間中心主義の称揚と定着につながらざるをえません。ニーチェ流の批判は行為者に、「自己」というカテゴリーに疑いをもつよう仕向けるにもかかわらず、結局のところ、およそ基準というものを課すことのない世界を前にした無制限の力と無制限の白由の感覚を抱かせ、かれらが「白由な戯れ」に興じたり、自己の美学に酔いしれたりする道を開いてゆくのです。そしてこのような「高級な」〔文化の〕理論は、ほんものという〔理想の息づく〕大衆文化に〔通俗化したかたちで〕浸透してゆくと----そのことは例えば〔「高級な」文化と大衆文化という〕二つの文化の接点に位置する学生たちのあいだに見て取れるでしょう----、今度は〔自己達成の〕自己中心的な様式〔「ナルシシズムの文化」!----引用者〕に拍車をかけ、それにいっそう深遠な哲学的正当化の粉飾をほどこすようになるのです。(81-83)
テイラーは「われわれの自己発見は、芸術家の創作と同じく、ある種の構想力=想像力を必要とする」ということを繰り返し述べつつも、所謂モダニズム芸術とか「ポストモダン」的「脱構築」に対しては非常にきびしいわけですな。なぜモダニズム芸術とか「ポストモダン」がだめかというと、それは連中が「自己の発見と創造と構築」を重視する余り「地平」と「承認」を無視するに至っているからだと(91)。このことを、テイラーは第8章「もっと微妙な言語」において、詩作における「表現の主観化」と「意味内容の主観化」の問題として論じ直している。つまり、これこそが芸術であるといえるような規準 canon が崩壊した現代において芸術は何らかの「表現の主観化」を伴わざるをえないわけだが、だからといって「意味内容の主観化」まで認めてしまうと、芸術そのものが生命を失ってしまうという議論である。(「表現の主観化」にコミットしつつも、「意味内容の主観化」を拒んでいる典型としては、ロマン主義が挙げられている。テイラーはロマン主義は好きだが、モダニズムは嫌いなのだな。)
#現代詩の「わかりにくさ」を擁護した高橋源一郎のエッセイを想い出したのだが、どこで読めるのやら。誰か高橋源一郎データベースとか作ってくれないだろうか。このままだと全集とかを編む際に大変だと思うのだが。
ちなみに、テイラーは近代的自我の主観主義志向を説明する際に、expressivism という概念を使いたがる(84)。この概念はバーリンがヘルダー論で用いたもので、それをテイラーは自らのヘーゲル論で用いているわけだが(邦訳『ヘーゲルと近代社会』においてもかなり重要な位置づけを与えられている----時間のあるときにメモしておくべきか)、客観主義に対する主観主義、ミメーシスに対するポイエーシスという文脈で「表現主義」ということを言われてしまうと、impressionism に対する expressionism という文脈で語られる「表現主義」との区別がぼやけてくる。というか、expressivism と expressionism の相違とは?
まあ、とりあえずテイラーにおいては、そんなに大きな区別はないと考えてみるか。