December 15, 2009

コォウギィィイ!エェンシュゥゥウ!@20091124_1210

ビギンズナイトは未見ですが、W風に(参照1参照2)。

@20091124火 2限 政治学2 セェイジガクゥゥウ! リベラル・ナショナリズム論。本務校は学祭の後片付けで全学休講。

@20091125水 午後に某会議。

@20091201火
○2限 政治学2 『動物農場』ネタも今年度までかなあ。

○4限 西洋政治思想史 レポート課題図書解説。

#卒業アルバムの撮影だったが、卒業予定の元ゼミ生の参加者がゼロ。某同僚によれば、ここ数年、ゼミを履修する4回生が激減しており(おそらく就活のため?)、卒業アルバムの撮影日を連絡しても4回生(つまり元ゼミ生)の集まりが非常に悪いとのこと。「まだ学生なんだから、4回生になってもちゃんと大学に出てこい」と憤るひともいるのだろうが、多くの4回生にとって、最後の一年間をじっくりと勉強に使うというのは、ひょっとするとたいへんな贅沢になっているのかもしれない。「就活で撮影に参加できません」という元ゼミ生からのメールに、教員としては「就活かー、大変だけど頑張れよ」と返事をするしかないわけで。それでなくても、法学部の多くの学生にとって、学部の4年間は「就職のための4年間」という位置づけのようだし。……とか書いてみたが、実は指導教員としての人望がないからではという可能性も高い。来年度以降も4回生が一人も集まらないという可能性はあるのだが……しかし、撮影の予定があるということを連絡しないわけにもいかないだろうし、実に面倒くさい話である。

○5限 ゼミ 『ハムレット』班中間報告。

@20091202水 午前中に某会議。

@20091203木
○3・4限 政治と経済A・B キューバ危機後半。

○7限 政治学演習2 ゼミ論中間発表 文章教室?

@20091205土
○1・2限 政治と経済Aの補講 ジャーナリズムと政治。

○3・4限 政治と経済Bの補講 ジャーナリズムと政治。

○5限 政治と経済Aの補講 マスメディアと政治。

@20091208火
○2限 政治学2 月曜日の時間割のため休講。

○4限 西洋政治思想史 レポート課題図書解説。

○5限 ゼミ 『1Q84』班中間報告。

@1209 午後に来年度のゼミ説明会。

  1. 「欧米政治事情演習」から「演習2(政治思想史)」に科目名が変更になった。他の演習がどちらかといえば学説の体系的な理解を助けるような内容なのに対し、この演習ではむしろ、様々な通説の「体系」を突き崩すような個別的な思想史研究に重点を置く。予備知識は不要だし、実際、かなり楽なゼミだと思うが、できるだけ図書館等でいろんなことを調べて自分で勉強して欲しいというのが担当者の願いである。
  2. 来年度は日本の1920年代思想という観点から宮沢賢治の作品を解読する作業が中心となる。参考書として見田宗介『宮沢賢治』を購読しながら、岩波文庫版の選集を読んでいく。どうしても外国のことを勉強したいというひとがいれば、カズオ・イシグロを読んでもらおうと考えている。ゼミ説明会では話さなかったが、実は『少女ファイト』の主人公が「ネリ」(『グスコーブドリの伝記』を参照)であったり、『テガミバチ』に宮沢賢治ネタが散見されたので、この機会に宮沢賢治的なものの現代的な意義を考えてみたいというのが最大の動機である。
  3. おそらく前期は、文学作品を素材に思想史を研究するというのはどういうことかについてあれこれ考えてもらうことになる。できればたくさんDVDを観たい。宮沢賢治関係は観るべきものが幾つかあるが。まずは文学作品への思想史的アプローチについて最も勉強になるなあと思われた作品『リチャードを探して』(amazon)を観たい。
@20091210木
○3・4限 政治と経済A・B ナショナリズム論の現在

○5限 政治と経済Bの補講 マスメディアと政治

@20091213日 学内の某研究会で報告。テイラーの「ヨーロッパの世俗化というのはこういうものです」という壮大な物語について報告。価値の多元化の末の「比較不能な価値の迷宮」という現状を踏まえつつ、幸福論の「私事化」を唱えるリベラルな立憲主義に対し、幸福論の「脱私事化」による攪乱の重要性を唱えるテイラーと愛敬浩二という話を。

特定の価値観を「脱私事化」することは政治的に危険ではないかという某研究科長のコメントに応答しつつ、「「伝統」というのはつねに『作られた伝統』でしかないというか、諸々の差異を排除して、同一的な〈……の伝統〉とか〈……の文化〉を云々するのは、作為的な「伝統」「文化」の捏造という側面をどうしても持つのではないか。そういう点で「日本の幸福観」とか「ヨーロッパの幸福観」を云々するのも、ある意味では作為的というか、どうしてもある種の暴力を伴うのではないか。たとえばわれわれが「東洋美術」というようなかたちで消費しているものの大半は、明らかに歴史のある時代に作為的に同一性を与えられたものではないか。しかしながら、そのことを踏まえた上で、にもかかわらず、たとえば1930年代にフッサールとかオルテガが「ヨーロッパ」なるものを云々したことにはそれなりの意味があるように思う。何らかの「伝統」とか「文化」を云々することの政治性ということにわれわれは自覚的であるべきだと思う。ひょっとすると何らかの「伝統」とか「文化」を「公的」に云々せざるをえない状況というのもあるのではないか。但し、できることならば「壁」の側ではなく「卵」の側に立ちたいとは思うが」と早口で。非常にビミョーな発言ではあったのですが、何人かの方々からは「禿同」というコメントを。

配布されたレジュメ集を見ると、自分のアブストが複数の外国語に訳されていてびっくり。学内の研究会だったし、日本語で30分報告しただけなのですが、これは「国際シンポジウムで報告」ということになるのでしょうか。

懇親会でマオタイ酒。ほとんど口にする機会がないからと調子に乗って飲んだせいか、アルコール度と香りの凄さにくらくら。他学部の某先生に「法学部の先生って、週に二つぐらい講義をやればいいんでしょ?」と。そんなことは断じてなぁぁあぃぃい!

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February 01, 2005

「承認」は「合意」ではない。

『<ほんもの>という倫理』レポート採点。はかどらず。気分転換には R.E.M. のベスト盤 in time 1988-2003(本当は Pet Shop Boys のベスト盤が聴きたいのだが、手元にない)と『CREA』2月号(相方の誘惑に負けて買ってしまった)。

どうも「他者の承認」を「他者との合意」のような意味にとっている受講生が少なからずいるらしい。「承認」概念の出所はいうまでもなくヘーゲル『精神現象学』だが、出所よりもそれが「分配」とどういう関係にあるかとか、「合意」とどこが違うかというようなことにもう少し触れておく必要があったのだなあと。

「合意 consensus」は基本的に「対立」や「緊張」を含んではいけないものだが、「承認」は「対立」とか「緊張」を含んでいても構わない。いやむしろ、「対立」や「緊張」を排除する「合意」との異質性を強調するために、わざわざ「承認」という概念が用いられているといっても過言ではないだろうと思う。

一切の「対立」を圧殺する「合意」については、前世紀末に『中央公論』掲載の井上達夫論文で読んだ記憶があったのだが、井上「合意」論は『現代の貧困』(amazonbk1)「第三部 合意の貧困」にまとめてあるのだな。

……いかにして合意は可能かと問うとき、我々はしばしば、人間は合意を形成しなければならない、あるいは合意に訴えなければならないということを、自明の前提にしている。しかし、合意の問題を根源的に問い直そうとするなら、この前提をも哲学的な「懐疑のテスト」に、一度さらしてみる必要がある。……/「合意」の最も直截な反意語は「対立」である。「なぜ合意が必要なのか」という問いは、「なぜ対立状態のままではいけないのか」という問いを含意している。対立とは、いずれは克服され、解消さるべき悪なのだろうか。対立が不可避であり、その完全な解消は不可能だとしても、このことは人間にとって悲劇であり、その痛ましさを和らげるために、対立の余地は最小化されなければならないのだろうか。(180-181頁)
「合意」というお目出度い理想を謳うことは、この世界に不可避にして解消不可能な「対立」が存在するという状況を隠蔽しているに過ぎない。そのような欺瞞的な「合意」ではなく、「対立」を前提とした共存を可能にするオークショット的「会話」の術を我々は身につけなければならない。

このように「対立」を前提とした「共生の作法」が井上説の基調であるとすれば、テイラーの「承認」も----少なくともその意図においては----「対立」や「緊張」を前提としながら共存していくことを目指す思想であったはずである(成功しているかどうかはともかく)。

というわけで(?)「承認」は「合意」ではない。「合意」ではない「承認」がどういうものかイメージできないというのであれば、とりあえずミスチルの『掌』でも聴いてみればいいのではないかと。

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January 27, 2005

テイラー『<ほんもの>という倫理』

を課題図書としたレポート(〆切は1月31日)作成中に「テイラー ほんもの レポート」とかをぐぐってここにたどり着いた「西洋政治思想史」受講生の方は、テキストに記載されている講義サポート用掲示板(要パスワード)の方を御覧になった方が有益な情報が得られると思います。

ここでも一応、ゼミでやった『ほんもの』本の話ぐらいは読めますが、講義サポート用掲示板に置いてある解説資料の方が使えると思います。(PDFファイルですが、どうしても .DOC とか別の形式のファイルでないと読めないという方は講義サポート用掲示板で対応させていただきます。)

ちなみに課題図書を高く評価しないと減点されるのではと怖れる余り、根拠不明なままマンセーを叫んだり、テイラー萌えを装っても仕方ないので、批判したいならがんがん批判して下さって結構です。安念潤司にリファーしつつ、長谷部恭男を駆使して「コミュニタリアン、逝ってよし」という結論を導いた----若干外在的批判に終始している観はあるものの----力作が既に届いていますが、批判的なレポートの方が、この本の場合は書きやすいかもしれません。但し「抽象的な理想論で、具体的な政策提言がない」とかいった類の「批判」は、この本を読まなくても書けるので×。

#いやまあ、2回生のレポートなのに、ケルゼンだの根本規範だのと。

ただ、ひどく外在的ではあるものの、「この本には、悪とか残酷さの問題が全然出てこないですね」という某ゼミ生Aのつぶやきには、いずれちょっと応答する必要があるかなと。

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January 06, 2005

講義と演習@20041213、20041220

20041213:
○3限 テイラー本を解説。おおよそ以下のようなことを。
・この本の読み方について: 冒頭で「三つの不安」が述べられ、全体としては確かに三つの不安について論じられてはいるものの、大半は第一の不安にあてられており、タイトルの「<ほんもの>という倫理」は第一の不安をめぐる議論の中で論じられている。本書の本論を重視して、第一の不安を中心に「<ほんもの>という倫理」について論じた作品として読むか、あまりできのよくない全体の構成を重視して「近代の不安」について論じた作品として読むか、一応自分なりの方針を決めておくこと(以下では、前者の方針に従う)。
・ポイント1: 現代文化の「自己達成の個人主義」(「自分のことは自分で決めたい」とか「自分らしくありたい」という自分探しのエートス)をめぐるテイラーの議論にどう応えるか。
・ポイント2: 「自分らしさ」の探求に失敗しないためには「道徳的地平」と「他者の承認」によって独善的主観性を克服しなければならないというテイラーの議論にどう応えるか。
・ポイント3: 現代文化における様々な「闘争」(例:ナルシシズム vs ほんもの)や「すべり坂」(独りよがりとか引きこもりの原因となるニーチェ主義とかポストモダ二ズムとか----といっても所謂「モダニズム」もここに含まれるわけだが)についてのテイラーの議論にどう応えるか。
・ポイント4: テイラーが近代芸術史を手がかりにして行っている「自己」についての考察(表現様式の主観化と表現内容の主観化という問題)についてどう応えるか。

後日談 テイラー本の内容構成のバランスの悪さについては既に米原さんが全く同じような指摘を早くからなさっていたことを知る(米原書評)。但し、安易にコスモス倫理学みたいなことを口にしがちなテイラーに、「コミュニタリアン」の負の要素があることは否定しがたいと思うので、そのあたり(?)については激しく不同意。

○7限 テイラー本9、10。某院生による修論中間報告。"RP" 論文の政治的合理主義批判を手がかりにオークショットの問題意識を炙り出し、LSE教授就任講義 "Political Education" をもとにオークショットの政治哲学の核心を素描するというもの。"RP" 論文の読みが甘かったり、「伝統の暗示的意味」や「会話としての政治」についてちゃんと説明できてなかったりと、まだまだ。

20041220:
○3限 デカルト。お約束のようにヴィーコと比較。いうまでもなくヴィゴではない。
○7限 昼ゼミと合同で忘年会。龍昇菜館→wishbone。おそらく次回から二次会は moby dick に変わるであろう。

ゼミ論草稿、夜ゼミはY君だけが提出。さてどうなる。

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December 05, 2004

演習@20041130

演習。テイラー本、第7、8章。

7.闘争は続く----自己達成主義文化における「ナルシシズム」vs「ほんもの」の闘争

#テイラーによればこの章では、第2章の最後に示された三つの命題のうちの①「<ほんもの>という理想は正当な理想である」が検討されているはずなのだが、「これについては説明は不要だろう」的な議論が展開されているだけで、むしろここでは、現代文化における「ほんもの」と「ナルシシズム」の闘争、白由な社会において続けられる「より高貴な白由」と「より低俗な白由」の闘争という話の方が詳細に論じられている。

□これまでのまとめ----「この〔ほんものという理想の息づく現代の〕文化をもっと自己中心的な自己達成の形態と見る一般的な見方」と、それに対するテイラーの批判(97-)

□争うべきは「ほんものという理想の是非」ではなく、「ほんものという理想の意味」(99)

□示されるべき三つのことについての復習(→第2章の最後)
①「自分らしくありたい」という理想、つまり「ほんものという理想」は支持するに値する。
②ほんものという理想が何を必要とするかについては、理に適った議論が可能である。(→第4・5章で既に示した通り。)
③ほんものという理想について議論することは、実践的な意味を持ち、現実を変え得る。

□①「自分らしくありたい」という理想の真価について----思想史研究から分かること(101-)

わたしの考えでは、西洋文化は過去二世紀にわたってこの〔ほんものという〕理想を表現する中で、人間の生に秘められた重要な可能性のひとつを明らかにしてきました。近代個人主義には例えば、自分だけの意見や信念を自分でつくりあげるよう求める面がありますが、ほんもの〔という理想〕が指し示すのもまた、みずからより多くの責任を引き受ける生き方です。それはいっそう充実した、以前にもまして自分だけのものと言えるような生活を(潜在的に)可能にしてくれます。なぜならそうした生き方は、ますます他人には真似できないその人だけの生き方になるからです。たしかに、そこにはさまざまな危険があります。----そのうちのいくつかはすでに探求しました。そのような危険を避け得なかったとき、わたしたちは或る点では、この〔ほんものという理想の息づく〕文化が発展していなかったならそうなっていたであろう状態よりも更に下へと墜ちてゆくことになるのかもしれません。けれども最善の形であれば、ほんもの〔という理想〕はもっと豊かな存在様式を可能にしてくれるのです。(101)
□闘争は続く----自己達成の個人主義が広く共有されている現代文化において続けられる「ほんもの」と「ナルシシズム」の闘争、白由な社会において続けられる「より高貴な白由」と「より低俗な白由」の闘争(107)

8.もっと微妙な言語----「形式の主観化」と「内容の主観化」----詩的言語の役割

現代芸術は「主観化された形式」に依拠せざるを得ないが、「内容の主観化」については用心深くこれを避けなければならないというような話。

教員:「『ゲルニカ』観ると、感動するよな?」
ゼミ生:「はい。なんだか圧倒されます。」
教員:「ということは、多くの人に何かが伝わっているわけだから、あの作品、内容は主観化してないわけだ。」
ゼミ生:「そういうことになりますね。」
教員:「しかしまあ、あれだ、表現の仕方がはげしく主観的であることは確かだよな?」
ゼミ生:「はい、はげしく主観的です。ちょっとまねできません。」
教員:「そういうふうに主観的な形式でありながら、主観的でない何かを表現できる芸術の言語のことを、シェリーという詩人は「もっと微妙な言語」と呼んだわけだ。これでこの章はわかったな?」
ゼミ生:「微妙です。」

ゼミ生:「でもせんせい、形式が主観化している芸術作品はたくさんあるわけですが、その中で<内容が主観化してない名作>と<内容が主観化したDQN作>を区別するにはどうすればいいんでしょうか。顔を白く塗って踊ってる人とかってたぶん芸術家なんでしょうけど、僕には何も伝わってこないのですが、あれって、内容は主観化されているんでしょうか?」
教員:「問題は君が感動したかどうかだな。感動したのか?」
ゼミ生:「はい感動しました。こういうことに熱心になれる人たちがいるという世界の不思議さに。」
教員:「だったら、それはそれで内容の主観化を免れているのではないだろうか。」
ゼミ生:「芸術って奥が深いですね。」

一応、ゼミでの議論を再構成したつもりなのだが、今ひとつ。

□二つの主観化----行為の様式の……/行為の中身もしくは内容に関わる……(112)

……ある意味では、この〔近代の〕文化は「主観化 subjectivation」とでも呼びうる多面的な運動を経てきました。「主観化」とはつまり、ものごとがますます主観中心に、しかも数多くの面で主観中心になってゆく運動のことです。かつてなら何か〔自己の〕外部にある現実----たとえば伝統的な法や自然----に照らしてものごとを確定していたのが、いまやわたしたちの選択に任されます。論争に際しても、かつてなら権威の下す裁定を受け容れねばならなかったのが、いまではわたしたち自身でよく考え、解決しなければなりません。近代の白由と自律は、わたしたちが自分のことを中心におくようにさせ、そしてほんものという理想は、わたしたちが自分だけのアイデンティティを発見してそれを明確に表現するよう求めるのです。

しかし、この〔主観化という〕運動には重要な点で異なる二つの側面があります。そのうち一方は行為の様式に関わり、他方は行為の中味もしくは内容に関わります。……ほんもの〔という理想〕はまぎれもなく自己言及的です。……しかしだからといって、それとは別のレベルにある〔行為の〕内容もまた自己言及的なはずだ、……ということにはなりません。……

この二種類の自己言及性〔行為様式の<主観性=自己言及性>と行為内容の<主観性=自己言及性>〕を混同すれば破滅的な結果になります。……わたしたちの文化では、〔行為の〕様式が自己言及的になるのはいかんともしがたいことです。〔ところが〕二種類の自己言及性が混同されると、内容の自己言及性も同じく避けられないかのような幻想が生み出されます。こうした混同が、最悪の主観主義に正当性を与えるのです。(111-113)

□二種類の主観化についての、近代芸術史を手がかりとした説明

①模倣としての芸術から「非主観的内容」を浮かび上がらせる「主観的様式=より微妙な言語」へ

この二種類の主観化がどれほど異なったものであるか、それなのにいかに混同されやすいかについては、近代芸術の足どりがまたとない実例を示してくれます。すでに見たように、芸術はほんものという理想にとって非常に重要な領域でもありますから、この点についてはとりわけここで探求するに値します。

これからお話しようと思う変化は十八世紀の終わりまでさかのぼるもので、ミメーシス(模倣)としての芸術理解から創造性を強調する芸術理解への転換----第6章で議論した転換----に関係しています。それはいわゆる芸術の言語に、つまり詩人や画家といったひとびとがあてにすることのできた、公的に通用する参照点に関わります。シェイクスピア(1564-1616)なら万物照応をあてにできました。……同じようにして絵画も、神とこの世の歴史や出来事、偉人たちといった公的に了解される主題を長いことあてにできました。……

しかし、わたしたちはこの二世紀のあいだ、そうした参照点がわたしたちに対してもはや効力をもたない世界に生きてきました。ルネサンスの時代には万物照応の教義も受け容れられていましたが、同じように今日その教義を信じるひとは誰もいないでしょう。神とこの世のいずれの歴史にしても、誰もが認める意義などないのです。……

こうした変化は次のように描写できるかもしれません。----詩の言語は、かつてなら公的に通用する一定の意味の秩序を頼りにすることができたのに、いまでは、明確に表現された感性の言語のうちにあるものでなければならなくなったのです。アール・ワッサーマンは、それまで確固としてあった意味の背景とともに旧い秩序が衰退した結果、ロマン主義期の新しい詩の言語の発展が必然となった次第を明らかにしました。たとえばポープ(1688-1744)が『ウィンザーの森』を書いたときには、ふつうに使える詩的イメージの源泉として、自然の秩序という昔ながらの見方をあてにすることができました。〔しかし〕シェリー(1792-1822)にはそうした源泉は使えません。詩人は自分自身の拠って立つ世界を明確に表現し、信じうるものにしなければならないのです。……「十八世紀の終わりまでは、一定の前提を共有するのに十分なだけの知的同質性があった。……ひとびとは程度の差こそあれ……キリスト教的な歴史解釈や自然の礼典主義、存在の大いなる連鎖、創造におけるさまざまな段階のアナロジー、ミクロコスモスとしての人間といった概念を受け容れていた。……十九世紀までにはこのような世界像は意識から消えていった。……模倣〔世界を描くミメーシス〕としての詩から創造〔自らの内面から世界を創り出すポイエーシス〕としての詩への概念変化は、なにも批判哲学上の現象にとどまるものではない。……いまや……新たな定式化の行為が付け加わり、詩人に義務づけられる。……近代詩はそれ自体の内部で独自の宇宙論的統語法を定式化し、同時に、その宇宙論的統語法が可能にする自律的な詩的現実を形作らなければならない。……」

ロマン主義の詩人たちとその後継者たちは、宇宙についての独創的な洞察を明確に表現しなければなりません。ワーズワースとヘルダーリンが『序曲』や『ライン河』のなかで、あるいは『帰郷』のなかでわたしたちをとりまく自然世界を描写したとき、かれらはもはや、確立された参照領域をくまなく利用するという----ポープが『ウィンザーの森』を書いたときにはまだできた----ことをしていません。かれらは、自然のなかにはまだふさわしいことばの見つかっていないものがあることに気づかせます。詩がわたしたちのためにことばを見つけ出しているのです。この「もっと微妙な言語 subtler language」----この言葉はシェリーから借りています----によって、〔まだふさわしいことばの見つかっていない〕何かが顕在化されると同時に定義され、そして創造されます。文学史におけるひとつの分水嶺が、こうして越えられたのでした。(113-117)

②「様式の主観化」を受け容れつつ「内容の主観化」を拒んできたロマン主義者たち
……これはポスト・ロマン主義の芸術に重大な主観化が起こったことを意味します。しかし、その主観化は明らかに様式の主観化であり、詩人がわたしたちに指し示すものに----それがどんなものであれ----詩人自身がどうやって近づいたのかということに関わるものです。そこからは決して、内容の主観化もなければならない……ということにはなりません。なるほど、この〔ポストロマン主義の詩において内容の主観化が見られるという〕見方はよくある見方ですし、実際、詩は「強烈な感情の内発的な流出」であるというワーズワースが述べた有名な文句のおかげで、それなりに信じられてもいるようです。しかしワーズワース自身は『ティンターン修道院〔上流数マイルの地で〕』のなかで次のように書いたとき、彼自身の感情を明確に表現する以上のことをしようとしていました。……

近代の最高峰に位置する詩人たちの何人かが成し遂げようとしたのは、まさに自己を超えた何ものかを明確に表現することにほかならなかったのです。……

……〔二十世紀のひときわ偉大な著作家のうちの一部のひとたち〕が問題にしたのは、自己ではなく、自己を超えた何ものかでした。リルケやエリオット、パウンド、ジョイス、マンといった著作家たちがとりわけそうです。かれらのような例は、詩の言語が個人の感性に根ざすほかないとしても、だからといって詩人が自己を超えた秩序と探求しなくなるわけではないことを示しています。たとえばリルケは『ドゥイノの非歌』で、わたしたちの境遇について、つまり死せる者に対する生ける者の関係について、人間のはかなさについて、そして言語のうちにある変容の力について何ごとかを語ろうとしています。(120-122)

③「広大な全体」と結びついているという「存在の感情」を「主観化された様式」を通じて取り戻す?
ほんもの〔である〕とは自分自身に忠実であることであり、自分の「存在感」を取り戻すことだとすれば、わたしたちがほんもの〔という理想〕を完全な形で成就できるのは、その〔存在感という〕感情がわたしたちをもっと広大な全体に結びつけることを理解するときだけかもしれません。ロマン主義の時代に自己感情と自然に帰属しているという感情とが結びあわされたのは、おそらく偶然ではなかったのでしょう。公的に定められた秩序を通して〔全体に〕帰属するという感覚の喪失は、もっと強烈でもっと内面的な結合の感覚によって埋め合わされる必要があるのかもしれません。それこそは、数々の近代詩が、明確に表現しようとしてきたことなのかもしれません。そして今日、わたしたちにはそうやって表現されてきたこと以上に、更に何かが必要なわけではないのかもしれません。(125)
「広大な全体」との結びつきがどうとかいう議論はどうも胡散臭い感じがして、ちょっときついのだが、まあこの辺がテイラー節なんだろうなと。

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演習@20041116

テイラー本、第4~6章。ちゃんと説明するのは結構めんどうくさい。

第4章と第5章では第2章の最後に示された三つの命題のうち「ほんものという理想について複数の人間が理にかなった議論を行うことは可能である」という命題が検討されるが、ややわかりくい議論の整理がなされているものの、基本的には、第4章で「単なる欲求や憧れよりも高尚な何かから流出する要求を無視すると、自分らしくありたいという自己達成主義は自滅する」ということが示され、第5章で「他者との絆とか他者による承認を無視すると、自分らしくありたいという自己達成主義は自滅する」ということが示されている。そしてテイラーは、この両者によって「自分らしくありたいという自己達成主義は、世界との関わりや他者との対話に対して開かれており、そのかぎりにおいては、断じて道徳的主観主義ではない」ということを示そうと試みている。

□第4・5章の狙い 「自己達成」には非主観的な「道徳的地平」と「他者の承認」が不可欠だということを示すこと

以下では、ほんものという〔理想の息づく〕文化がひろがりゆくなかで、この〔我々のアイデンティティの形成と維持が生涯にわたって対話的であり続けるという〕核心的事実が受け容れられてきたことを指摘しようと思います。しかしさしあたりは、まず一方でこうしたわたしたち〔人間〕の条件の対話的な特徴をとりあげ、他方でほんものという理想に本来備わっている要求をとりあげます。そしてそこから、より自己中心的で「ナルシシズム的」な現代文化の様式が明らかに不適当であることを示してゆきます。もっと詳しく言えば、わたしの示したい点は次のようになります。(a)わたしたちには他者とのきずなが要るということを顧みずに、あるいは(b)人間誰しももっているような欲求や憧れ以上のものから、もしくはそれらとは別のものから流れ出るさまざまな要求を顧みずに、ただ自己達成だけを選び取るような文化の様式は自滅的だということ、すなわちそうした流儀は、当のほんもの〔という理想〕自体を実現するための諸条件を破壊してしまうということです。(49)
ほんものという理想に照らすならば、たんなる道具として〔他者との〕関係性をつくりあげることは、自分を愚か者にするような振る舞い方です。そんなやり方でも〔自己〕達成を追求できるという考えは幻想にすぎません。そこには選択を超えたところにある重要性の地平を承認しなくとも自己選択はできるという考えに通じるものがあります。(74----第五章)
□現代文化特有の「自己達成」主義には「ほんものという理想」への可能性が含まれているが、現状では「道徳的地平」「他者の承認」の重要性が無視されており、その結果「ナルシシズム」という「理想の陳腐化」が蔓延している。
これまで、いわゆる「ナルシシズムの文化」をどう見たらよいかについて示してきました。「ナルシシズムの文化」とは、自己達成を人生の主要な価値とする一方、〔自己の〕外部からやってくる道徳的な要請や、他者との真剣な関わり合いはほとんど認めようとしない考え方が広まっている〔事態の〕ことでした。この二つの点で自己達成の概念は実に自己中心的なものに思われ、それゆえに「ナルシシズム」ということばがあてがわれたのです。〔これに対して〕わたしは、この文化にはある倫理的な希いが、つまりほんものという理想が部分的にせよ反映されていると見るべきであり、しかもその理想それ自体は、自己中心的な姿をとることを許容するものではないと述べてきました。この〔ほんものという〕理想に照らすならば、〔自己の〕外部からやってくる道徳的な要請や他者との真剣な関わり合いを認めないということはむしろ、この理想からの逸脱として、この理想の陳腐化として現れてくるのです。(76----総括----第六章)
4.逃れられない地平----自分を超えたところにある重要性の地平を無視すると、自分らしくありたいという理想は、単なるナルシシズムに堕落し、自己崩壊する。

□「自分の外部からやってくる道徳的な要請=道徳的地平」----「自分らしさ」を考えるときに、「3732本の髪の毛をもつ人」という自己理解と「世界一見事にベートーヴェンのピアノソナタ29番を演奏できる人」という自己理解は等価ではない----後者の方が「自分らしさ」の根拠として強い説得力を持つのは、後者が自己の主観性を超えた「重要性の地平=道徳的地平」と関わっているからである。

ものごとが重要性を帯びるようになるのは、理解可能性という背景に照らしたときです。これを地平と呼ぶことにしましょう。そうすると、自分自身を定義するにもそれを意味あるものにすべきならば、ともかくもその地平を隠蔽したり、否定したりするわけにはゆかないことになります。というのも、その地平に照らしてこそ、ものごと〔たとえば「選択すること」----引用者〕は重要性をもつようになるからです。そうした〔地平の〕隠蔽や否定は自滅的なやり方なのですが、主観主義に染まったわたしたちの文明では、つねにそのやり方がまかり通ってきました。よくあるのは、複数の選択肢から選択することの正当性を強調するあまり、気づいてみると選択肢から重要性を奪い取っていたという場合です。たとえば、標準とは異なる性的指向を正当化するディスコースなどがそうです。そこでひとびとが論じようとするのは、異性愛の一夫一婦制だけが性的満足に達する唯一の方法ではないということ、したがって同性愛の関係に惹かれるひとたちにしても、自分たちが劣った道、価値の低い道に踏み込んでしまったなどと感じるべきではないということです。この議論は、ほんもの〔という理想〕の近代的な理解とぴったり一致します。ほんもの〔という理想〕における差異やそのひとだけの自己のあり方といった概念、多様性の受容といった概念とうまく調和するのです。……

ところが、ときとしてこのディスコースは、選択それ自体の肯定へとすべり落ちてしまうことがあります。どの選択肢にもひとしく価値がある。それは、どの選択肢も白由に選択されるからだ。つまり価値を授けるのは選択〔それ自体〕なのだ、というわけです。〔何らかの道徳的地平が存在するという前提を否定し、選択するということ自体に絶対的な価値を認める「根源的選択 radical choice」というサルトル的発想----テイラーはこういう発想を安易な決断主義だとして批判している----引用者。〕ここで効いているのは、穏やかな相対主義の根底に横たわる主観主義の原理です。この原理は、〔選択に〕先だって重要性の地平が存在していることを暗黙のうちに否定します。最初に重要性の地平があって、価値のあるものとそれほどでもないもの、さらにまったく価値のないものが区別され、それから選択が行われるにもかかわらず、主観主義の原理は、重要性の地平が前もって存在することを否定するのです。

……なるほど、ジョン・ステュアート・ミルが『白由論』で主張するように、わたしの人生が〔わたし自身によって〕選ばれたものであるということは大事かもしれません。しかし、数ある選択肢のなかに意味のある選択肢、他の選択肢よりも重要な選択肢がなければ、自分で選択するという観念自体が陳腐なもの、筋の通らないものになってしまいます。理想としての自己選択〔の観念〕が意味をなすのは、ひとえに、他の何にもまして重要な問題が存在するからにほかなりません。昼食のとき、ひなどりではなくステーキとポテトフライを選んだからといって、自分は自己選択をする人間なんだと主張するわけにはゆきませんし、ましてニーチェを受け売りして、自己創造をとやかくすることなど許されません。どの問題が重要なのか、それを決めるのはわたしではありません。もしわたしが決めるのだとすれば、どの問題も重要ではないことになるでしょう。しかしそうなれば、自己選択という理想それ自体が、道徳的理想として不可能になってしまうのです。(52-56)

それゆえ自己選択という理想は、自己選択を超えたところに別の問題、重要性の問題があることを前提にしています。自己選択という理想は、それ自体だけでは理想たりえません。なぜならその理想は、何が重要なのかが問われる地平を必要とするからであり、そうした問いこそが、自己創造が重要になるような観点を定義するのに一役買うからです。……

人生の意味を追求し、自分自身を有意義な仕方で定義しようとする行為者は、重要な問いの地平に生きなければなりません。……自己を超えたところから発せられる要求に耳を塞ぐならば、ものごとが重要性をもつための条件を隠蔽することになり、陳腐化を招くのは必定です。ひとびとがこうした状況で道徳的理想を追求する場合、そのように自己へと引きこもることは、自分で自分を愚かな状態に陥れるようなものです。自己へと引きこもることで、理想を実現する条件、そのもとでこそ理想が実現されうる条件を、みすみす破壊してしまうのですから。

言い方を変えれば、重要なことがらを背景にして〔つまり道徳的地平の存在を前提として----引用者〕、その背景と照らし合わせることでしか、わたしは自分のアイデンティティを定義できないのです。しかるに歴史を、自然を、社会を、そして連帯の要求をも考慮の対象からはずし、自分自身のうちに見出されるもの以外はいっさい目もくれないようになれば、重要なことがらの候補となるものをあらかた摘み取ってしまうことになりましょう。歴史でも自然の要求でもいい、人間同士のニーズでもシティズンシップの義務でもいい、神のお召しでもいいし、ここに挙げた以外の何かでもいい、とにかくそうしたものが決定的な重要性を持つ世界に生きるとき、そしてそのときにだけ、わたしは自分のアイデンティティを、それも陳腐ではないアイデンティティを、自分の力で定義できるのです。ほんもの〔という理想〕は、自己を超えたところから発せられる要求の敵ではありません。ほんもの〔という理想〕は、そうした要求を前提にしているのです。(56-58)

5.承認のニード----他者との絆、他者による承認を無視すると、自分らしくありたいという理想は単なるナルシシズムに陥り、自滅する。

【参考】「他者による承認」?----テイラー「承認をめぐる政治」より

現代の政治の多くの要素は、承認 recognition の必要、時にはその要求をめぐって展開している。承認の必要は、政治におけるナショナリズムの運動の背後の推進力のひとつであると論じることができる。そして承認の要求は今日、いくつかの形態のフェミニズムや「多文化主義 multiculturalism」の政治と今日呼ばれるものにおいて、少数派ないしは「従属的」集団を擁護するために、いくつかの仕方で、政治の全面に登場している。

後者〔フェミニズムや多文化主義〕の諸事例における承認の要求は、承認とアイデンティティの間に結びつきが想定されることによって、緊急性を帯びたものになる。ここではアイデンティティとは、ある人々が誰であるかについての理解、すなわち彼らが人間として持つ根本的な明示的諸性格についての理解といったものを意味する。ここには次のような想定が存在している。すなわち、我々のアイデンティティは一部には、他人による承認、あるいはその不在、さらにはしばしば歪められた承認 misrecognition によって形作られるのであって、個人や集団は、もし彼らをとりまく人々や社会が、彼らに対し、彼らについての不十分な、あるいは不名誉な、あるいは卑しむべき像を投影するならば、現実に被害や歪曲を被るというものである。不承認や歪められた承認は、害を与え、抑圧の一形態となりうるのであり、それはその人を、偽りの、歪められ切りつめられた存在の形態のなかに閉じこめるのである。(テイラー「承認をめぐる政治」チャールズ・テイラーほか『マルチカルチュラリズム』岩波書店、1996、37-38)

□アイデンティティの形成と維持に不可欠な「他者がわたしたちに与える承認」とその歴史的変化
さきにわたしは、わたしたちのアイデンティティが他者との対話のなかで、いいかえれば、他者がわたしたちに与える承認 recognition と折り合いをつけたり、闘ったりするなかで形成されるさまについて述べました。ある意味、こうした事実を近代的な形で発見し明確に表現するようになったのは、ほんものといういまなお発展しつつある理想との密接な結びつきのなかで起こったことだと言えるでしょう。

……かつての階層社会では、今日なら個人のアイデンティティと呼ばれるものは専ら、そのひとの社会的な地位と分かちがたく結びつけられていました。いいかえれば、あるひとがあることがらを重要だと承認するとき、そのひとがそのことがらの意味を了解する背景は大部分、そのひとが社会のなかで占める地位やそれと結びついた役割なり活動なりによって規定されていたのです。……〔自分の〕アイデンティティを〔自分が属している〕社会から導き出すこうしたやり方を根元から掘り崩したのは、ほかならぬほんものという理想でした。この理想が出現したとき、たとえばヘルダーの時代、この理想はひとりひとりに、他の誰にも真似できない自分らしいあり方を発見するよう求めました。他の誰にも真似できない自分らしいあり方----それは定義からして、もはや社会から導き出すわけにはゆかず、〔自己の〕内面から生み出さなければなりません。

しかし当然のことながら、〔自己の〕内面からといっても〔対話からでなく〕独白から生み出されると考えるなら、〔自己の〕内面から〔アイデンティティが〕生み出されることなどありません。それはさきに論証を試みたとおりです。自分のアイデンティティを発見するといっても、〔他者から〕孤立した状態でアイデンティティをひねり出すのではありません。アイデンティティの発見とは、ときには面と向かって、ときには心のなかで交わされる他者との対話をつうじて、自分のアイデンティティを定めてゆくことなのです。そしてそうであればこそ、内面から生み出されるアイデンティティという理想の発展が、承認に対してかくも新しく、かつ決定的な重要性を与えることになったのです。わたしと他者との対話的な関係が、わたしのアイデンティティを決定的に左右するのです。

ここで肝心なことは、こうした他者〔の承認〕への依存がほんもの〔という理想〕の時代に起こったことではないということです。……かつてなら、承認が問題として取り沙汰されることなどありませんでした。社会から導き出されるアイデンティティは、誰もが当たり前と見なす社会的なカテゴリーにもとづいていたわけですが、まさにその事実からして、社会から導き出されるアイデンティティには社会の承認が組み込まれていました。[例:岡山村の濃厚な人間関係の中で規定された農家の桃男さんのところの長男の桃太郎というアイデンティティ----引用者]ところが、内面から生み出される個人的なアイデンティティ、そのひとだけのアイデンティティの場合には、そのように最初から承認を当てにすることはできません。承認は〔他者との〕やりとりをつうじて手に入れなければなりませんし、またそれゆえ、承認されないこともありえます。ですから、近代になって生じたのは承認のニードではなく、承認を求めても手に入れられないことがありうるという状況の方なのです。そしてそうであればこそ、いまになって初めて〔承認の〕ニードが認知されるようになったのです。近代以前には「アイデンティティ」や「承認」について語られることはありませんでしたが、それは当時のひとびとに(私たちの言う)アイデンティティがなかったからでもなければ、アイデンティティが承認に左右されなかったわけでもなく、わたしたちがしているように主題として取り上げるには、アイデンティティも承認も、あまりに疑問の余地のないものだったからなのです。(62-67)

□他者との関係を単なる道具と見なし、地平を無視して「自己選択」だけを絶対視する発想に対する批判
この章を始めるにあたってわたしが立てた問いは、次のようなかたちで提起できるでしょう。----自己を中心に据える生のあり方が、さまざまなアソシエーション〔自発的な結社のこと----引用者〕をも単なる道具としてしかあつかわない態度につながらざるをえないとすれば、自己を中心にすえる生のあり方をほんものという理想の観点から正当化することはできるのだろうか、と。そしてこの問いは、いまやこういいいかえることができるでしょう。----〔ほんものという理想のもとで〕推奨されるような他者と共に生きる様式には、自己を中心に据える生き方のような他者と絶縁した生き方の余地があるのだろうか、と。……

ほんものという理想に照らすならば、単なる道具として〔他者との〕関係性をつくりあげることは、自分を愚かにするような振る舞い方です。そんなやり方でも〔自己〕達成を追求できるという考え方は幻想にすぎません。そこには、選択を超えたところにある重要性の地平を承認しなくとも自己選択はできるという考えに通じるものがあります。(70-74)

6.主観主義へのすべり坂----近代的自我はどのようにして「地平」と「承認」の重要性を忘却するにいたったのか----モダニズム芸術と「ポストモダン」の「脱構築」における主観性の横溢

□「ほんものという理想」と「ナルシシズムの文化」についての小括(75-76)

□現代の「ナルシシズムの文化」をどう見ればいいか----三つの説
(1)同情的否定説:「ナルシシズムの文化」特有の自己達成の理想は立派だが、その実際の帰結はエゴイズムの文化でしかありえない
(2)否定説:「ナルシシズムの文化」特有の自己達成の理想そのものが放縦とエゴイズムの表現にすぎず、逝ってよしである
(3)葛藤説:「ナルシシズムの文化」特有の自己達成の理想には、「ほんものという理想」へと発展する可能性があるにも関わらず、そのことが十分に理解されず、結果的に単なる「ナルシシズム」に陥っている。自己達成の理想と実際との葛藤について我々はちゃんと考えなければならないし、「ほんものという理想」の可能性を模索しなければならない(テイラーの立場)。

□自己達成の理想が「主観主義=ナルシシズム」に陥る三つの「すべり坂」
(1)前近代的な村落共同体の崩壊と近代的な産業-技術-官僚社会の進展
(2)〔道徳的知性とか他者との関わりを軽視しがちな〕大衆文化の一般的傾向
(3)高級文化におけあらゆる地平を解体するニヒリズム的な美意識(82ff)

……ほんものという〔理想の息づく〕文化における逸脱についての説明は、ひとつにはこの文化が産業-技術-官僚社会のなかで生きられているという事実と突き合わされなければなりません。……

とはいえ、社会的背景によってすべてが語り尽くされるわけではありません。ほんものという理想の内部にも、〔主観主義へと〕すべり落ちてゆくのを助長する原因があります。実際、〔主観主義への〕すべり坂はひとつしかなかったのではなく、二つありました。そしてその二つ〔のすべり坂〕は入り組んだ関係に、しかも互いに矛盾するような関係にあったのです。

第一のものはこれまで話してきたような、現代の大衆文化に見られる自己達成の理想の自己中心的な様式へのすべり坂です。第二〔のすべり坂〕はある種のニヒリズムへと、いいかえれば重要性の地平というものをおよそ否定する方向へと向かう「高級な」文化の動きで、一世紀半にもわたっていまもなお続いているものです。その二十世紀的な形態の起源はなるほど〔ヴェルレーヌの〕「呪われた詩人」のイメージやボードレールの姿のうちにも見出されますが、この場合やはり最たる人物はニーチェでしょう。----もっとも、彼は「ニヒリズム」ということばを違った意味で、むしろ彼が拒否したものを指し示すために使ったのですが。この系列に属する思考の様相はモダニズムを構成するいくつかの要素となって現れ、そして今日ポストモダンと呼びならわされるジャック・デリダや後期のミシェル・フーコーのような著作家のうちに姿を見せています。

これらの思想家たちが与えた影響は逆説的です。かれらは、わたしたちが日頃依拠するさまざまなカテゴリーへのニーチェ流の異議申し立てを、ほんものという理想の「脱構築」にまで、ひいては自己の概念そのものの「脱構築」にまで推し進めます。しかし実のところ、あらゆる「価値」は創造されたものだというニーチェ流の批判は、人間中心主義の称揚と定着につながらざるをえません。ニーチェ流の批判は行為者に、「自己」というカテゴリーに疑いをもつよう仕向けるにもかかわらず、結局のところ、およそ基準というものを課すことのない世界を前にした無制限の力と無制限の白由の感覚を抱かせ、かれらが「白由な戯れ」に興じたり、自己の美学に酔いしれたりする道を開いてゆくのです。そしてこのような「高級な」〔文化の〕理論は、ほんものという〔理想の息づく〕大衆文化に〔通俗化したかたちで〕浸透してゆくと----そのことは例えば〔「高級な」文化と大衆文化という〕二つの文化の接点に位置する学生たちのあいだに見て取れるでしょう----、今度は〔自己達成の〕自己中心的な様式〔「ナルシシズムの文化」!----引用者〕に拍車をかけ、それにいっそう深遠な哲学的正当化の粉飾をほどこすようになるのです。(81-83)

テイラーは「われわれの自己発見は、芸術家の創作と同じく、ある種の構想力=想像力を必要とする」ということを繰り返し述べつつも、所謂モダニズム芸術とか「ポストモダン」的「脱構築」に対しては非常にきびしいわけですな。なぜモダニズム芸術とか「ポストモダン」がだめかというと、それは連中が「自己の発見と創造と構築」を重視する余り「地平」と「承認」を無視するに至っているからだと(91)。このことを、テイラーは第8章「もっと微妙な言語」において、詩作における「表現の主観化」と「意味内容の主観化」の問題として論じ直している。つまり、これこそが芸術であるといえるような規準 canon が崩壊した現代において芸術は何らかの「表現の主観化」を伴わざるをえないわけだが、だからといって「意味内容の主観化」まで認めてしまうと、芸術そのものが生命を失ってしまうという議論である。(「表現の主観化」にコミットしつつも、「意味内容の主観化」を拒んでいる典型としては、ロマン主義が挙げられている。テイラーはロマン主義は好きだが、モダニズムは嫌いなのだな。)

#現代詩の「わかりにくさ」を擁護した高橋源一郎のエッセイを想い出したのだが、どこで読めるのやら。誰か高橋源一郎データベースとか作ってくれないだろうか。このままだと全集とかを編む際に大変だと思うのだが。

ちなみに、テイラーは近代的自我の主観主義志向を説明する際に、expressivism という概念を使いたがる(84)。この概念はバーリンがヘルダー論で用いたもので、それをテイラーは自らのヘーゲル論で用いているわけだが(邦訳『ヘーゲルと近代社会』においてもかなり重要な位置づけを与えられている----時間のあるときにメモしておくべきか)、客観主義に対する主観主義、ミメーシスに対するポイエーシスという文脈で「表現主義」ということを言われてしまうと、impressionism に対する expressionism という文脈で語られる「表現主義」との区別がぼやけてくる。というか、expressivism と expressionism の相違とは?

まあ、とりあえずテイラーにおいては、そんなに大きな区別はないと考えてみるか。

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November 09, 2004

演習@20041109

5限、テイラー本、第1~3章。

1.三つの不安
□近代特有の三つの不安----現代文化におけるある種の喪失もしくは没落
①<意味喪失=道徳の地平の消失→ひきこもり的個人主義の蔓延>についての危惧[5頁]
②<道具的理性の暴走→様々なテクノロジーの脅威>についての危惧[7, 10頁]
③<政治的白由の喪失→公的領域からの排除、市民としての尊厳の蹂躙>をめぐる危惧[12頁-]

□<近代>の進行をどう捉えるか----全肯定でもなく、全否定でもなく[15-16頁]----現代文化の力強い道徳的理想(善き生のヴィジョン)とは、「自分自身に忠実であれ」という自己達成の文化であるが、これは本来ならば「ほんものという理想」という「もっともすばらしいもの」に発展するはずなのに、相対主義に毒されて「ナルシシズムの文化」とか「快楽主義」に堕落している。近代的な「自己達成の文化」を、「ナルシシズムの文化」へと堕落させるのではなく、「ほんものという理想」へと発展させるにはどうすればいいか、それを考えるのが本書の狙いだというようなことは主に第2章で。

つまりまあ、次の表の空欄を埋める作業をやりたいというわけだな。

現代文化の道徳的理想=「自分自身に忠実であれ」という自己達成の個人主義
堕落形態=ナルシシズムの文化本来の姿=ほんものという理想
  1. 意味喪失=道徳の地平の消失→ひきこもり的個人主義の蔓延
  2. 道具的理性の暴走→様々なテクノロジーの脅威
  3. 政治的白由の喪失→公的領域からの排除→市民としての尊厳の蹂躙
2.かみ合わない論争
□アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』が危惧するもの----相対主義の蔓延は近代個人主義のせいだ[17, 22,183頁]----価値観は人それぞれという相対主義が蔓延しており、その根底には、「各人は自分が納得できる生き方をすべき」だという自己達成の倫理(自己達成の個人主義)があるという認識。→自己達成の個人主義は、一人一人の目を自分自身に釘付けにし、<<自己を超えたこと>>に気づかなくしてしまうという懸念

□ブルーム的懸念に対するテイラーの違和感----自己達成の個人主義に典型的に見られるような現代文化の道徳的理想(「自分自身に忠実な生き方」こそがすばらしいと考える<ほんもの>という倫理)のことを、ブルームは理解できていない。たとえばフリーターたちは自分の生き方を、「自分探し」だと弁明し、それが「いいかげんな生活」ではないと主張する。つまり、フリーターとして生きる者たちは、単なる放縦とは区別される「自分自身に忠実な生き方」の可能性を信じ、しかもそれが道徳的に価値のあるものだと考えている。それ自体は相対主義的でないような「自分らしくありたい」という倫理の存在は否定できない[20-21頁]。

□<ほんもの>という倫理を相対主義に陥らせてしまう三つの原因
①中立性のリベラリズム(「中立の白由主義」)----政治哲学は善き生について語ってはならないという発想[24頁]
②道徳的主観主義の威力----道徳の根拠は各自の主観性であって、道徳の争いは調停不可能だという考え方[25頁]
③社会科学の無力----すぐに社会のあり方に問題をなすりつけ、道徳的理想そのものを真剣に問おうとしない態度[27頁]

□「中立性のリベラリズム」

この理想を受け容れるに際して、ほんものという〔理想の息づく〕文化----と呼ぶことにしたいのですが----のなかで生きているひとたちは、これまでにも他の多くのひとたちに擁護されてきたある種のリベラリズムを支持します。すなわち、中立性のリベラリズム liberalism of neutrality です。このリベラリズムのもとになる教義は次のようなものです。白由な社会は、何が善き生を形づくるのかといった問いに対しては中立を守らねばならない。善き生とはひとりひとりの個人が、彼なりのやり方、彼女なりのやり方で探し求めるものであって、それゆえ、もし政府がこの問いに対して旗幟を鮮明にするようなことにでもなれば、その政府は公平性を欠くことになり、したがってまた、すべての市民を平等に尊重していないことになる----。たしかに、これと同じ見解をとる著述家たちの多くは、穏やかな相対主義にも猛烈に反対します。しかし、かれらの理論は、結局のところ、善き生とは何かをめぐる議論を政治的論争の周縁へと追いやってしまうものにほかなりません。(24)
□本書の狙い----相対主義に陥らない<ほんもの>という倫理の可能性を探ること[30-31頁]
……現代文化を批判しているひとたちが攻撃していることがらの多くは、この〔ほんものという〕理想の堕落した形態であり、逸脱した形態です。いいかえれば、そうした堕落の形態、逸脱の形態もなるほど、その〔ほんものという〕理想から流れ出てきたものであり、またそれを地でゆくひとたちも同じ理想をもちだしてはきますが、しかし、当の理想の成就としてほんもの(!)を意味するかといえば、実際にはそうではないのです。その最たる例が、穏やかな相対主義にほかなりません。ブルームは、穏やかな相対主義には〔自己達成の個人主義という〕道徳的根拠があると見ています。「真理の相対性は理論的洞察ではなく、道徳的要請なのだ。それは白由な社会の条件であり、少なくともそう(学生たちは)理解している」と。これに対してわたしはこう主張したい。----現実には穏やかな相対主義は、道徳的洞察の茶番であり、結局は当の道徳的洞察を裏切るものである。穏やかな相対主義は、ほんものという道徳的理想を斥ける理由になるどことか、そもそもそれ自体が相対主義の名によって斥けられるべきなのだ、と。……(30)
わたしが提示するのはむしろ、低俗化してしまったとはいえそれ自体はすぐれて価値のある理想の姿、いやそれどころか、こう言ってよければ、現代人であるかぎりけっして手を切ることのできない理想の姿です。したがって、わたしたちがしなければならないのは、片っ端から非難することでもなければ手放しで賞賛することでもなく、まして慎重にトレードオフの帳尻を合わせることでもありません。わたしたちがしなければならないのは、この〔ほんものという〕理想を回復する作業であり、またそうすることによってこそ、わたしたちはこの理想の助けを借りて、自分たちの実践を立て直すことができるようになるのです。(32)
□検討すべき三つの命題
①<ほんもの>という理想は正当な理想である。
②理想について複数の人間が理にかなった議論を行うことは可能である(主観主義は間違っている)。
③理想について理に適った議論をすることは、現代社会に大きな変化をもたらしうる(我々はシステムの奴隷ではない)。

3.ほんものという理想の源泉----思想史の整理
□ほんものという倫理の源泉----道徳の源泉は自己の内面にあるという考え方
①デカルト的な遊離した合理性(哲学的個人主義)
②ロック的社会契約説の政治的個人主義
②18世紀末の反個人主義----アトミズムを批判したロマン主義
③18世紀の道徳感覚説----「道徳とは内面から発せられる声である」という<ほんもの>倫理の核心[36頁]
④ルソーにおける白由と存在感情----<自己決定的白由 autonomy>と<ほんもの authenticity>の混在
⑤ヘルダーにおけるほんものの倫理の成立

「自分らしくありたい」という理想は、歴史的な必然によって成立したものだし、そんなに悪いものではない。だが、「自分らしくありたい」という「自己達成の個人主義」の蔓延こそが現代における悪しき相対主義の原因であるというブルームの批判は一部あたってるし、実際、「自己達成の個人主義」が堕落して醜悪な「ナルシシズムの文化」が形成されたことも確かだ。だから今こそ「自己達成の個人主義」の本来の姿である「ほんものという理想」を再構成しなければならないというのがテイラーの問題意識ということですな。

説明が悪いせいか、「むずかしい」の連発。しかしまあ、なんとか読み切りたいなと。

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