July 13, 2007

「手に取るようにわかる」大学で勉強する方法?

学生: すいません、レポートが書けませんでした。
教員: それで……どんなリアクションをお望み?
学生: 何もいわず、無条件で許して下さい。
教員:  (゚Д゚)ハァ?
学生: では、お説教を聴きますので、それで勘弁して下さい。
教員: そもそも、どうしてきみはレポートを仕上げることができなかったのだろう?
学生: それが、なんというか、うまく集中できなくて……。
教員: 受験生時代はちゃんと勉強していたのだろう?
学生: そうですね……大学に入ってからダメ人間になったようで……やはり、座禅とか寒風摩擦とかビリーズブートキャンプとか、何か努力した方がいいんでしょうか。
教員: レポートを書くにせよ、期末試験の対策をするにせよ、やはりそれなりに集中して取り組まないと無理なのだけど、大学に入ってからそういうことができなくなってしまうという学生は結構いるようだね。とりあえず、以下の四つについて自己診断してごらん。

1.どのぐらいの時間、勉強したか: 過去一週間、一ヶ月の自分の生活を振り返り、机に向かって集中した時間は一日平均どのぐらいかを算出してみる。
2.どのぐらいの量を、勉強したか: 過去一週間、一ヶ月の自分の生活を振り返り、読んだ頁数、書いた字数は一日平均どのぐらいかを算出してみる。
3.どんなことを考え、記憶したか: 過去一週間で自分がどんなこと考えたか、どんな新しい知識(言葉とか人名とか)を得たか、想い出してみる。
4.自分はどのような学習環境、学習習慣を持っているか: 自分の毎日の過ごし方を想起しつつ、どのような時間帯、環境、条件の下で自分が集中して学習に取り組めているかを想い出してみる。
学生: ……憂鬱になりまふ。
教員: うん、ぼくも憂鬱になるから考えないようにしていることなんだけど……。しかし、他の学生がちゃんと提出できているのに、自分だけレポートが書けなかったり、あるいは期末試験の準備がうまくできなかったときには、やはりちょっと考えてみた方がいいのではないかと思う。特に、大学に入って、一人暮らしなんて始めると、環境とか習慣が大きく変わるから、それは必ずいろんなことに影響するからね。「ちゃんと頑張らなかったからだ」と自虐的になったり、「逃げちゃダメだ」なんて精神主義的な自己暗示に頼るのではなく、環境と習慣を見直した方が有益だと思うよ。無論、環境が整えば必ず集中できる時間を確保できるわけでもないのだけど。
学生: ……でも、せんせいなんだから、環境を整えよ、みたいな話ではなくて、もっと「楽に本が読めて、レポートが書ける方法」とか「集中しなくても勉強がはかどる方法」を教えてくれてもいいような気がするんですが。というか教えて下さいよ。
教員: しかし、たとえば毎日昼前に起床して、テレビで、いいとも→ごきげんよう→ワイドショー→ドラマの再放送……みたいな生活をしていては、勉強どころではないだろう(実はぼく自身の学生時代の生活なんだけど)。あと、騒音等の事情で自宅とか下宿での学習環境を確保できないのであれば、図書館とかファミレスとかで勉強する習慣を身につけるしかないだろう(ちなみに、ぼくの論文とか翻訳のかなりの部分はミスドとかマックで書いたものだ)。あまり知られていないのだけど、A・W・コーンハウザー(『大衆社会の政治』の人ではない)『大学で勉強する方法』(amazon)という本の巻末にまとめてある「効果的な勉強のためのルール」11箇条には次のようにある。
1.あなたの教科を修得するという希望を持ち、いつか習得するんだと決意しなさい。明確な希望を持ちなさい。あなたの義務と責任をきちんと自覚しなさい。貧弱な勉強の結末とよい勉強の報酬との違いを認識しなさい。
2.あなたの決意を実践に移しなさい。以下の方法は役に立つであろう。……
(d)その教科に集中しなさい。ぼーっとしないように注意しなさい。気を散らす要因から身を守りなさい。そして、あらゆる機会にしっかりとした自分を取り戻しなさい。
(e)あなたの勉強を妨げる、あなたの性格的な問題に目を向けなさい。それらに知的に対処すること。悩んだり、くよくよしつづけるのはやめなさい。信頼できる友人や専門の相談員からすぐれた助言を受けなさい。見せかけの解決や自己防衛的な説明によって自分自身を偽ってはならない。……
4.あなたの勉強を妨げる、気を散らす要因をすべて避けなさい。それは、騒音、ぎらぎらした光、不快な感情、緊張、必要以上の休養、などである。
5.しっかりとした日々の勉強のスケジュールを作りなさい。作業計画を立てなさい。勉強のための時間と場所を組織化する習慣を作りなさい。……
11.活動的に勉強しなさい。あなたの知識を使って、いま学んでいることについて考え、話、そして書きなさい。できるだけ多く、そしてできるだけ早く、あなたの知識を利用しなさい。
学生: なんだか激しいですね。
教員: うん、ぼく自身は、大学の存在意義の一つは「ぼーっと」過ごせるということにあると思っていて、こういうオブセッショナルな感じの話はあまり好きではないのだけど、大学で勉強したい何かがあるのなら、結構ためになる本かもしれない。この11箇条の部分をコピーしていつも携帯し、毎朝読み返すと何かが変わるかもしれない。いうまでもなく「楽に本が読めて、レポートが書ける方法」とか「集中しなくても勉強がはかどる方法」は書いてないけどね。

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April 14, 2007

演習@20070412

3限、法政基礎演習。一年生が19名。全員に自己紹介をさせる前に、以下のようなお説教を。

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法政基礎演習は、「法学部1年次生」向けの「法学・政治学の入門的授業」であると同時に「学生生活上のガイダンス」ということですので、最初に、何か「大学で学ぶとはどういうことか」みたいなお話をいたします。小中高で聴かされた校長訓話みたいなものですから、おそらくあなた方的にはどうでもいい内容になりそうですが、一応、通過儀礼だと思って我慢して聴いて下さい。

とりあえず、結論からいえば、私があなた方に大学でやってほしいことは次の三つです。

A.自分なりの関心(傾注 attention)を形成して下さい
B.情報収集の技術を習得して下さい
C.情報活用の技術を習得して下さい

とはいえ、これでは何だかよく分からないので、一つずつ説明いたします。

A.自分なりの関心(傾注 attention)を形成して下さい

ここでいう関心とは、何がやりたいとか、どんな自分になりたいといった、過去、現在、未来の自分の生活に方向性を与えるもののことです。そこには低俗なことから高尚なことまで、まとまりのない様々なことが含まれてますから、それを全て自分で把握することはできないと思います。しかも、関心は日々の生活の中で練り上げられ、新たに得た知識と経験によって変容していきます。五年前、十年前のあなた方と、今のあなたがたでは知識と経験の量に大きな違いがありますから、その間にあなた方の関心にも変化が生じているはずです。成長の過程で将来の夢や関心が変わることは当たり前のことですから、そうした変化自体は良いとも悪いともいえません。大事なことは、そういう自分の関心の練り上げ作業に、意識的に関わっていくことです。

自分なりの関心を形成していく作業――ジョン・スチュアート・ミルという人はそれを「教養」と呼びました――は、(1)自分の関心を吟味すること、(2)自分の関心を練り上げること、(3)新しい関心の可能性を探ること、の三つに分けることができると思います。

(1)自分の関心を吟味すること

(1)自分の関心を吟味するとは、要するに、過去の自分にどんな関心があったかということと、今の自分にどんな関心があるのかということを考えながら、自分の中にある、長期的な関心と短期的な関心を区別することです。長期的に自分の生活に方向性を与える関心には必ず生活の中での何らかの裏付けがありますから、そういう関心は信用していいと思います。それに対し、短期的な関心とは、そういう裏付けのない、単なる思いつき的な関心のことで、これを信用して行動すると、自分で自分に騙されてしまう危険性があります。

最近は少なくなりましたが、ちょっと前まで、四回生になってから突然「大学院に進学して勉強したいのですが」と相談に来る学生がときどきいました。そういうときに、私はまず「そんなに勉強したいのなら、既に何か勉強したはずだよね。どんな本を読みましたか」と尋ねることにしてました。つまり、その学生の大学院進学への関心が、何か具体的な裏付けをもった長期的な関心か、それとも何の裏付けもない――おそらくは就職活動が嫌になったとかそういう消極的な動機を秘めた――短期的な関心かを確かめておく必要があるからです。少し胸に手を当てて考えてみて下さい。自分の関心の中には、それに自分の人生をある程度委ねても構わないような信頼できる関心と、信頼できない無責任な思いつき的関心の両方があるはずです。以下、生活の中に何らかの裏付けのある関心を長期的関心、裏付けのない方を短期的関心と呼ぶことにします。両者の違いは絶対的なものではないのですが、両者を或る程度区別しておくことは自己防衛上大切なことです。

(2)自分の関心を練り上げること、

とはいえ、短期的関心に何の価値もないかといえば、そんなことはありません。それは五年後、十年後、長期的な関心へと変容しているかもしれません。また、長期的な関心も、何かのきっかけで生活の中での裏付けを失い、どうでもいい関心に変わってしまうかもしれません。だから、維持したい長期的関心には意識的に裏付けを与えていくべきだし、短期的な関心に自覚的に裏付けを与えていくことで、それを長期的関心に育てていくこともできるはずです。あなた方は将来どんな自分になりたいのでしょうか。そういう自分になりたいという関心は、あなた方の日々の生活の中に裏付けを持っているでしょうか。うまく裏付けを与えることができる人もいれば、できない人もいるでしょう。しかし、できればあなた方には、自分の関心の形成と、それに裏付けを与える作業を意識的に行なって欲しいと願っております。

(3)新しい関心の可能性を探ること

関心の形成は、その人が置かれた歴史的な文脈によって或る程度決定されています。しかし、自分とは異なる文脈を生きている人の関心形成から、間接的にですが、別の関心形成の可能性を知ることは可能です。――あ、難しい言い方をしてしまいましたね。つまり、世の中には、あなた方が思いもつかないような関心を形成している人がたくさんいるので、そういう他人の関心形成から、多様な関心形成の可能性を学びとって欲しいということです。あなた方は各自で自分なりに自分の関心を形成しているわけですが、ときには全く別の関心形成の可能性を探るべく、自分が全然関心を持っていなかったようなことを経験してみたり、他人がどのような関心をなぜ抱いているのか注視してみることです。そして、自分が考えもつかなかったような、新しい関心の可能性について想像してみることです。

B.情報収集の技術を習得して下さい

本とか論文を読んで知識とか考え方とかを身につける作業は大学生活の根幹ですが、それにはコツのようなものが幾つもあります。とりあえず情報収集に関していえば、(1)情報収集を意識しながら本や論文を読むこと、(2)ノートをとること、(3)情報源を確保すること、の三つを実践して下さい。

(1)情報収集を意識しながら本や論文を読むこと

ある分野についての基本的な知識を得たり、重要な問題の所在を知るということを意識しながら本や論文を読むという作業は、あなた方の多くにとって、未経験のことだと思います。何かについて勉強しなければならなくなったら、まずはその分野についての入門書や基本書の類に、ざっとでも目を通す習慣をつけて下さい。また、読むという作業は、情報を効率よく仕入れ、頭に叩き込む作業なので、どの本のどの辺をどのように読むのが最も効率的かということを考えて下さい。文具も重要です。付箋(ふせん)という大変便利な道具の使い方は分かりますか。あと、三色ボールペンを使った非常に効率的な読書の方法を知っていますか。赤青緑のボールペンを片手に本を読み、まあまあ大事なところには青色で、かなり重要なところは赤色で、自分的に面白かったところには緑色で線を引くという読書法です(齋藤孝『三色ボールペンで読む日本語』)。付箋を貼ったり、ボールペンで線を引きながら本を読んだ経験がある人は少ないと思いますが、本の内容を頭に叩き込んだり、期末試験や報告の準備をする際には非常に有効な方法です。線を引くなんて本がもったいないと思う人は、付箋を使うか、あるいはがんがん書き込んでノート代わりにしても構わないような本を古書店で安価で買えばいいと思います(古書店で100円程度で売っている岩波新書や中公新書を、がんがん線を引きながら読む作業は非常によい勉強になると思います)。

(2)ノートをとること

講義を聴いたり、本を読んだりするときに、情報を整理し、頭に叩き込み、後々のアウトプットに使えるようにノートをとることは大事なことです。道具として使えるノートは、作成に三つの段階があるということを憶えて下さい。すなわち、①授業中のメモ、②復習時の補足、③試験前の整理です。この三つの作業を行うために考案されたノートの取り方に、コーネル大学式ノートというのがあります。ただ、これはA4文化圏の話で、皆さんが一般に使うのは見開きでB4の大学ノートでしょうから、見開きのどちらかのページに①授業中のメモをとって、片方のページは空けておく。そしてその空けておいたページに②復習時の補足(事典とか基本書からの抜き書き等)と、③試験対策用のサマリーを書き込むのがいいと思います。いずれにしても、授業中のメモだけでノートが完成するわけではないということは憶えておいて下さい。(あと、他人のノートをときどき見せてもらうことは大事なことです。自分だけでは気が付かなかったことについて新しい発見があるはずです。)

それと、授業のノートをとる際には、教員の授業のスタイルに応じてノートをとることです。板書をそのまま書き写せば美しいノートができあがるというような授業のスタイルをとっている教員はほとんど皆無です。『アカデミック・スキルズ』第二章「講義を聴いてノートを取る」によれば、授業のタイプとノートの取り方には少なくとも次の五つのタイプがあるそうです(佐藤望ほか編『アカデミック・スキルズ――大学生のための知的技法入門』慶應義塾大学出版会、2006、30頁以下)。

①「ひたすら説明、ときどき板書」派教員の授業→キーワードを聴き分け、全体のアウトラインをしっかりつかむようにメモを取る。
②「ひたすら板書」派教員の授業→ひたすら書き写す+板書されない説明もメモする
③パワーポイント派教員の授業→メモを取るのは不可能なので、ハンドアウトをもらえるよう交渉する
④理論派教員の授業→用いられている専門用語を聴き取ってメモし、意味の分からないものについては自分で調べるか、教員に質問する
⑤棒読み派教員の授業→論理展開を追いながら読書ノートを作るつもりでメモをとる。用いられている資料や本を入手して丁寧に読む。
(3)情報源を確保すること

新聞、雑誌、テレビ、インターネット等のメディアにできるだけ触れる機会を設けて下さい。それと、週に一度は大型書店に行って、新刊、文庫新書、専門書のコーナーをぶらついて、どんな本が出ているか、実際に手にとって、目次だけでも立ち読みして下さい。雑誌のコーナーで自分の関心に沿った雑誌を眺めることも大事です。法学部生が読む定期刊行物としては『法学セミナー』と『法学教室』が有名です。図書館にあるので、毎月手にとって、読める記事があれば読んでおきましょう。

C 情報活用の技術を習得して下さい

情報活用については、(1)情報を出し入れするための記憶力と集中力を鍛えること、(2)仕入れた情報を使って文章を書いてみること、(3)仕入れた情報を使って更に高いレベルの情報を処理すること、の三つをやって下さい。

(1)情報を出し入れするための記憶力と集中力を鍛えること

頭に叩き込んだ情報を使って知的活動を行なう最も効率的な練習法は、ちゃんと対策をして試験を受けることです。受験時代に鍛え上げた記憶力と集中力を維持するためにも、年に一回は語学検定試験(手軽なのはTOEIC)と各種検定試験(手軽なのは法学検定試験)を受けることを勧めます。TOEICと法学検定試験は、受けておくと二年生以降のゼミ選考の際に有利になるので是非とも受けて下さい。(法学検定試験は、四級を一年生で、三級を二年生で、二級を在学中に受けるのが理想です。四級と三級は指定された問題集をやれば十分です。)

(2)仕入れた情報を使って文章を書いてみること

受けた授業の内容を1600字で要約してみるとか、何か機会を設けて、自分の得た情報を使って、まとまりのある論理的な文章を書いてみて下さい。はじめは、自分が如何に日本語ができないかということに愕然とするかもしれませんが、どうせ愕然とするなら、早いうちがいいです。

(3)仕入れた情報を使って更に高いレベルの情報を処理すること

授業で教わっていない分野について、自分で入門書を読み、そこで得た知識を使って基本書、専門書へと読書のレベルを上げてみるということをやってみて下さい(法学と政治学の入門書と基本書については『法政基礎演習共通テキスト』第2章に詳しく書いてあります)。ときどき、入門書ばかりを中途半端に読んでばかりという学生がいますが、入門書はそこから更に先に進むための本ですから、さっさと読み終え、次のステップへと果敢に進んで下さい。(そして入門段階に限っていえば、予備校系の本、たとえば伊藤真の『憲法入門』とか柴田孝之の『S式生講義』『1問1答法律用語問題集』を読むことは全然オッケーだと思います。)

ちょっと細かい話をしすぎたかもしれません。繰り返しになりますが、確認のために、まとめておきます。大学では、次の三つの作業を行なって欲しいというのが、私の願いです。

A.自分にどういう関心があるかを吟味し、生活の中で裏付けを与えていって下さい。勉強したいことがあるなら、勉強して下さい。何か資格を取りたいのであれば、ちゃんと準備して、資格試験を受けて下さい。
B.本を読み、ノートをとるという基本的な情報収集の技術を習得して下さい。
C.情報を集めたら、それを使って更に先に進んで下さい。記憶力と集中力をつけてください。

最後に参考文献を上げておきます。Aについては、スーザン・ソンタグという人の『良心の領界』(NTT出版、2004)の「序 若い読者へのアドバイス……」を念頭にお話しました。Bについては、様々な読書術の本を読んで欲しいのですが、とりあえず齋藤孝の『三色ボールペン情報活用術』(角川新書、2003)か『三色ボールペンで読む日本語』(角川書店、2002)と、佐藤望ほか編『アカデミック・スキルズ――大学生のための知的技法入門』(慶應義塾大学出版会、2006)が有益だと思います。

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かなり考えて話したつもりだが、いいたいことは伝わったのだろうか。

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February 22, 2007

船曳 2005

『大学のエスノグラフィー』をざざざっと。『書斎の窓』に連載された「ゼミの風景から」の未読分を読むため(来年度の基礎演習の準備)。

著者については、『知の技法』所収の「「うなずきあい」の18年と訣れて」を読んで以来、何だかのみ込めそうでのみ込めないことをいう人だという印象が。連載当時、「論文を「読む」」のところを読んで以来、ゼミの指導では、レジュメとかパワーポイントによるプレゼントではなく、ちゃんとまとまりのあるペーパーを朗読するという発表を重視するようになった。第一章は、人気のあるゼミでどんなことがなされているのかが描かれていて、勉強になる(あるレベル以上の大学においてのみリアリティのある話なので、「こんなことできねーよwwwW」とか愚痴りたくなるところも少なくないが……)。

第二章以下は……どうなんだろう。あたくしなどは幸い、何人かのせんせい方から聞いて知ってた話だが、大学院への進学とかを考えている学生は読んでおいた方がいいのかもしれない。

俗物故に、兼業届けのこととか、秘書のこととかに目が行ってしまう。いやまあ、あたくし自身は他の人がいると集中できないタイプだし、他人に指示するのが苦手なので結局全部自分でやった方が早いとか思うわけですが、簡単にできるはずの雑用がどんどん溜まってきたときのストレスは結構きついわけで。

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February 21, 2007

香山 2002

昔某講義の受講生向けに書いた香山リカ『ぷちナショナリズム症候群――若者たちのニッポン主義』のレポート解説。旧日記は個々の記事に固定リンクがはれないので、こちらに若干修正してコピペ。

[ 01 ]「ぷちナショナリズム」とは何か?

「序章」によれば、本書執筆の意図は次のようなことだ。我が国において「手放しで日本を肯定し、賞賛」する――それも例えば「イギリスが好き」といった他の選択肢があるということを知らされないままに――「無邪気なぷちナショナリストたち」が若者の中に増えてきたことと、その「社会背景」について検討すること。本当は自分で自覚的に選び取ったわけではないのに、あたかもそれが自分の自発的な選択の結果であるかの如く、無邪気に「ニッポン、好き」という言葉を何の躊躇もなく口にする若者。「屈託のなさ」という言葉が繰り返し現れるが、本書においてそれは「自分の態度について批判的に自己吟味を行う姿勢が、決定的に欠落していること」と同義である。そして、「屈託」のない「自己決定」は、単なる自己欺瞞であって、本来の意味における自己決定の名には値しない。「自己決定」を安易に語ることの危険性について、「あとがき」において香山はいう。

「自己決定」「自己責任」ということばが、どうしても好きになれません。

医療の現場でも、医師は検査所見や今後の見通し、治療の種類について十分に説明した上で、「さあ、あとはあなたが決めてください」と患者の自己決定に委ねるべし――そういう雰囲気が広まっています。しかし、そこで自分の命についてまで決定を迫られている「自己」とはいったい何なのでしょうか。「個の意思」とはそれほどしっかりしたものなのでしょうか。説明のあとで患者が「やっぱり私は手術はやめておきます。自然食でなんとかします」と言ったとしたら、多くの医師は「医学的にはそんな方法で治る可能性はないのに」と知りながらも、それ以上、説得をすることもなく「そうですか、ではどうぞ」と診察室を出る患者の姿を見送るでしょう。それは、個を尊重する態度にも見えますが、実は知識や力を持っている側がすべての責任を引き受ける面倒を回避しているだけで、患者側にとってのメリットはあまり多くないのではないでしょうか。

これと同じように、それぞれの「個」が日本人としての誇りを持ち、生まれた国・ニッポンを愛して何が悪い、といういまのぷちナショナリズム的な言説や、それを認める知識人たちにも、私は強烈な違和感を覚えます。「個」であること、「個の意思」について発言したり選択したりすることは、一般に考えられているよりずっと難しいのです。「私は、私のことばで語っている」と思い込んでいても、だれかにそう語らされているだけだった――。そういう事態を避けるためにも、私たちはもっと「自己決定」「個の時代」という言葉を慎重に扱わなければならない。そして、だれかが「個の時代のぷちナショナリズム」の危険性についても、「決めるのはあなたまかせ」としないで指摘しなければならない。そう考えて、この本を書くことにしました(香山 2002:179-180)。

とりあえず気になるのは、特に若者たちの間に蔓延しているとされている「ぷちナショナリズム」とはどういうものか、またそれを特に若者たちが「選ばされている」というのがどういうことなのかという点だろう。定義らしいものを探すと、次のような文章に出くわす。曰わく、
それが古い世代に連想させる意味や歴史とは切り離され、明朗さや屈託のなさとともに描かれる「美しいニッポン」「強いニッポン」のイメージ。そこに関与している若い世代は「これは右翼とか左翼とか関係ないこと」と言うし、たしかにかつての愛国主義や国粋主義が持っていた”こわもて”の姿はどこにも見あたらない。しかし、「私はこの立場を選び取った」という自覚もないまま、いつのまにか「ニッポンが好き」と発言していたとしても、やはりそれはどこかの時点で選択肢の中から選んだか、あるいは選ばされたかした上での立場なのではないだろうか。そして、そのことに全く無自覚なまま、あたかも生まれたときからずっとそう思っていたように「ニッポンが好き」と言ったり、言わされたりしているということに、本当に問題はないのだろうか(香山 2002:35-36)。
愛国主義や国粋主義と呼べるほどの凄みはなく、また自覚的に選び取ったわけでもなく、何となく雰囲気的に選ばされて辿り着いた「ニッポン、好き」の感情。「ぷちナショナリズム」そのものを定義するとすれば、おそらくこんな感じになるのだろう。

[ 02 ]「切り離し」と「アクティング・アウト」――「ぷちナショ」の心理的背景

ただし香山の関心は、「ぷちナショナリズム」そのものというよりも、その基底にある「単純明快な体育会系判断」「若者達のこの屈託のなさ、多層性が感じられない心のフラットさ」(香山 2002:60)に向けられる。香山によればそこに見られるのは、個々の経験を、歴史や社会、あるいは自分の人生との関連抜きに捉える「切り離し」という心理である。たとえば、我々は通常、自分の意識、記憶、アイデンティティ、環境についての知覚を時間と空間の中で統合的に捉えている(例:居酒屋で酔っぱらっている私と、研究室で論文が書けなくて苦しんでいる私は、同一人物である)。だが、「切り離し」の心理は、そうした統合を分断、細分化(「解離」)し(例:居酒屋の私は、私ではない!)、さらには事態を冷静かつ客観的に評価することに伴うストレスを回避すべく、面倒な思考を放棄して、「大好き、最高」か「大嫌い、最低」という両極端な反応(「分裂」)で済ませてしまう。「ぷちナショナリスト」は、この「切り離し」を屈託なく生きるためにほとんど確信犯的に実践する。歴史的、社会的な意味などという面倒なことを思考の領域から排除し、好きか嫌いかを直感的に判断することで、生きることに伴う様々なストレスを回避しているのである。

このように「切り離し」には、精神医学的に言えば、分裂と解離、ふたつの種類があると考えられる。そして、以前は精神が病理的な状態に陥っている場合にしか見られなかったこのふたつが、いまでは「ちょっとした葛藤や面倒くさいことを避けるとき」に若い人にふつうに使われるようになっているのだ。ある意味で、もっともスタンダードな心のメカニズムのひとつ、と言ってもいいかもしれない。

たしかにこのメカニズムを使えば、深く考えることもなく何かを決めたり行動したりできるし、困ったことが起きた場合でも、それにより深く傷つくことも、心の奥深くに抑圧された葛藤が時間を経てからよみがえってきたりすることもない。

あまりあれこれ気にせずに、いまだけを楽しみながらこの現代社会を屈託なく生きていくためには、分裂と解離は必須の武器、とさえ言えるかもしれない(香山 2002:95-96)。

「必須の武器」とあるが「切り離し」は実にたよりない。というのも、それは心理的なストレスを一時的に減少させるだけであって、事態を何ら好転させるものではないからだ。それは結局のところ、単なる「アクティング・アウト」、すなわち「自分でもうまく言語化できない葛藤を、激しく衝動的な行動で表現」しているだけにすぎないのであって、「ひとときの解放感、カタルシスは得られるが、根本的な葛藤は解決されないままだから、またすぐにとらえどころのない不満や焦燥感がつのっていく」のである(香山 2002:14)。

複雑な現代社会で生きていれば抱え込まざるをえない様々な問題に取り組むストレスを回避せんがために、面倒な思考を放棄して、直感的な好き嫌いでものごとを判断する「切り離し」。「ぷちナショナリズム症候群」の根底にあるのは、ストレス回避だけを求めて思考を停止する、このネガティブな「切り離し」の心理にほかならない。(藤田省三ならばそれを「安楽への全体主義」と呼ぶであろうし、あるいはニーチェを召喚しても構わないと思う。)思考のストレスを回避して、直感的な好き嫌いだけを導きとするならば、人は周囲の人々との「鏡像的同一性」の中で「ぼくも他の人たちとおんなじだ」という安楽さに自足できる「想像的(イマジネール)な関係」を求めることになるだろう。「周囲の他人との違い」は「違い」というだけで「鏡像的同一性」を破壊する。「周囲の他人との違い」を限りなくゼロに近づけるには、常に「100人にきいた場合に、そのうちの一番多くの人が選ぶのはどれ?」を考え、「この人こそが世間の代表者、永久にこの人の<分身>でいさえすれば間違いはない」という「絶対的な永久の鏡像」を求めるしかない。そして香山によれば、いま「世間を代表する絶対的な<鏡像>」として最も有力なのが、ほかならぬ、みのもんたであるという(香山 2002:102-103)。「みのもんた現象」も、「ぷちナショナリズム」症候群と同様に、現代人が複雑な問題に取り組むストレスを回避し、面倒な思考を放棄して、直感的な好き嫌いでものごとを判断する「切り離し」を日々実践していることに起因しているのである。

[ 03 ]「身も蓋もない現実主義」の脅威――反復される「切り離し」の行き着く先

だから、香山が問題にしているのは、実はタイトルにある「ぷちナショナリズム症候群」ではなくて、こうした「切り離し」の風潮が、日本社会の階層化(佐藤俊樹『不平等社会日本』)の中で、どのような危機を招きうるかという問題にほかならない。どういう危機かというと、それはフランスの「極右」ナショナリズムの延長線上にあるようだ。香山は二つの「自覚を伴うナショナリズム」(アメリカの「「自由を愛するとは、すなわちアメリカを愛するということだ」という幻想にも似た信念に基づく愛国」と、韓国の「ほかの国から受けた屈辱をバネに国民が一致団結するという愛国」――なんとなく違和感のある整理だが……)と比較しながら、フランスの「自覚を伴わないナショナリズム」について次のように述べている。具体例として挙げられているのは、大統領選挙での国民戦線のルペンの健闘である。曰わく、

欧州連合という理念のもと、既成政党がむずかしい政治的論争ばかりを繰り広げていても、実際の社会状況はなかなか良いほうに向かわない。とくに明日の仕事もなく今日の生活の不安に脅える底辺層、失業層は、社会や政治に対する不満をつのらせていた。しかし、彼らはその原因を的確に分析し、批判することがなかなかできずにいた。そうやって、「いまの社会には満足できないが、何が悪いのかもわからない」と宙づりの状況に置かれていた層に向けて、ルペンは「すべては移民が悪いのだ」という簡潔にして極端な回答を与えて見せた。それは、自分が何に苦しめられているかもわからずにいた人々にとって、まさに「腑に落ちる」回答だったのだろう。「そうか、そうだったのか!」と膝を打つ半ば生理的快楽の前に多くの人々は「本当にそうなのだろうか?」と検証するプロセスさえ放棄して、ルペンに心酔していったのだと思われる。

追いつめられた状況であればあるほど、人間はシンプルな極論に飛びつきやすい。これは、洗脳の心理的メカニズムの研究からも明らかにされている。苦痛の原因もわからずに苦しむほど、人間にとってつらいことはない。そういう状況に長く置かれている人の目の前に「悪の原因はこれだ」という説明を差し出すと、それがどんなに荒唐無稽なものであろうと、意外なほどあっさり受けいれられる。カルト的な宗教集団はそれを利用して、ピンチに立っている人間に近づき「これはサタンの仕業なのです」など囁くのだ。ヨーロッパで擡頭する極右勢力も、おそらくはこれとほとんど同じ手法で、多くの庶民をとりこにしつつあるのだろう。

それにしても、よりによってヨーロッパで極右とは、と驚きを禁じ得ない人もいるはずだ。ヨーロッパは、ナチという大きな過ちを起こした歴史を抱えている。……

しかし、ゴダールのようないわゆる知識階層が、いまなお自分たちの歴史への自戒の念にとらわれて憂いのうちに生きているうちに、底辺層、失業層は「そんなことより、今日の生活を何とかしてくれ」という切迫した状況の中で、「移民さえ追い出せば、生活がよくなるなら、そうするしかないじゃないか」と極右への支持を固めていったわけである。もしかするとフランスなどの知識階層はいま過去に対しての反省と「反省しているうちに庶民が極右に走ってしまった」という現在への反省、二重の反省状況におかれているのかもしれない。そして、そういう知識階層の反省が現実の生活には何ももたらしてはくれないことに、失業層や底辺層はよけいに苛立ちをつのらせている。以前、テレビドラマの孤児役の少女が発する決め台詞、「同情するならカネをくれ」が流行語になったこともあったが、ヨーロッパの庶民たちは、考えてばかりで行動しない知識階層に対して、まさに「反省するならカネをくれ」と言いたいのではないか。「考える葦としての人間」の誕生の地であるヨーロッパで身も蓋もない現実主義が広まりつつあることに複雑な思いを抱く人もいるだろうが、実際の状況はいつのまにかそうなっていたということだ。

こう考えてくると、「移民を追い出せ。固有の文化を愛せ」と叫ぶヨーロッパの極右勢力に代表される愛国主義は、アメリカや韓国でのそれとはまたかなり異なっていることがわかる。アメリカは「自由を愛するとは、すなわちアメリカを愛するということだ」という幻想にも似た信念に基づく愛国、韓国はほかの国から受けた屈辱をバネに国民が一致団結するという愛国だとしたら、ヨーロッパの極右支持層は「自分の国の社会や知識階級に対する不満や批判の表明としての愛国」を実践していると言える。そういう意味では、「移民を追い出せ」という主張はきわめてシンプルではあるが、ヨーロッパの極右の背景にあるものは非常に複雑だ。「自分の国が好き」から始まる愛国ではなく、「自分の国のエリート層は何もやってくれない」という自国の社会や政治への不満や絶望から始まり、「生活の安定のためには反多文化、反移民しかない」という見かけの愛国に着地する。

ヨーロッパが得意とするはずの理念や思惟は、「今日の生活を何とかしてくれ」と極右に走る庶民層にどこまで歯止めをかけることができるだろうか(香山 2002:45-50)

「今日の生活を何とかしてくれ」という「底辺層、失業層」の「身も蓋もない現実主義」を梃子にした「極右」勢力の擡頭。香山がこの本で繰り返し指摘する最大の危機はこれである。しかも香山によれば、事態は日本において、より深刻である。フランスには、まだゴダールのような反省し続ける知識人がエリート層にいて、非力ではあるが、何らかの歯止めにはなるかもしれない。それに比べ、日本のエリート層に見られるのは、戦前の日本の暗い過去を「切り離し」て「改憲」を論じる村田晃嗣や、金儲け主義の非人間性を「切り離し」て「自由投資主義」を語る西部忠などの「切り離し」系論客の「現実主義」ばかりであり、「極右」の「身も蓋もない現実主義」に対する歯止めには到底なりえず、結果的に「エリート層」「中間層」「ロー階層」の全てが「極右」ナショナリズムにいかれてしまう危険性があるという。
地盤沈下した「中間層」がナショナリズムを選択し、「ロー階層」も無自覚なままその方向になだれ込む。そうなったら、「エリート層」はどうするだろう。おそらくそれでも歴史や自身の内面からは「切り離し」をした思考パターンしかできないはずの彼らは、「エリート層」であり続けるために――つまり優秀な個人投資家であるために――やはりナショナリズムへの道を選択するであろう。

そう考えていけば、いまは他愛もない”愛国ごっこ”でとどまっているぷちナショナリズムの国・ニッポンが、瞬く間にラディカルなナショナリズムの国に転じていく可能性も否定できない。そして、そのとき世界の表舞台に装いも新たに再登場した”美しい国・ニッポン”は、低所得層だけが極右に走ったフランスなど問題にならないほど、ほとんどすべての階層がそれぞれの立場で愛国主義を唱える世界一のナショナリズムの国になっていたのである――これが単なる笑い話で終わるかどうか、答えは意外に早く明らかになりそうである(香山 2002:138-139)。


[ 04 ]「ぷちナショナリズム」と「切り離し」――重要なのはどちら?

終章で香山は、ぷちナショナリズムなんてものは「すぐバラける」から「心配ない」という故ナンシー関の「予言」に言及しているが、本書を通読したかぎりでは、香山自身はナンシー関よりも悲観的な現状認識を持っているのではないかという印象を受ける。香山によれば、「ぷちナショナリズム」は、社会の階層化が進行していく中で、「極右」ナショナリズムに発展する危険性を秘めている。ナンシー関は「心配ない」というが、高村薫が、そしてほかならぬナンシー関自身が、「違和感」「気味悪さ」を通じてその危険性を洞察していたのではなかったか。

そして、香山はやや唐突に「三つのシナリオ」を提示する。かくも危険な「ぷちナショナリズム」の「極右」ナショナリズム化をどう防ぐか。「よさこい祭り」のような「和」趣味の「祭り」で若者の鬱憤エネルギーを回収すればいいかもしれない。あるいは、小川彌生『きみはペット』のような「異なる層でカップリング」することによって「階層外の世界」の可能性を模索すればいいかもしれない。ただし、山崎正和のように「あれは単なる「愛国ごっこ」なんだから、心配要らない」と考えることはできない。なぜならば、「ぷちナショナリズム」は、「これは単なる「ごっこ」だ」というような自分を突き放してみる距離感を持っていないのだから云々。

しかし、「ぷちナショナリズム」の基底にある「切り離し」という議論を興味深く読んでいた読者ならば、この第5章と終章の「「ぷちナショナリズム」にいかに抵抗するか」的な議論に違和感を覚えたのではないだろうか。これでは《「ぷちナショナリズム」は階層社会化の中で「極右」ナショナリズムに大化けする危険性をもっている。怖いぞ」》(テーゼA)という浅薄な見解だけを絶叫しているだけのように感じられる。第2・3章で詳しく論じられた洞察、すなわち《ストレス回避だけを求めて思考を停止する、ネガティブな「切り離し」の心理が社会に蔓延しているが、これは「一服の清涼剤」を求めてなされる「アクティング・アウト」を繰り返すだけで、取り組むべき数多くの具体的な問題をすべて放棄したあげく、「反省するならカネをくれ」的な「身も蓋もない現実主義」で知識人を脅迫する「極右」ナショナリズムに「着地」する危険性を孕んでいる》(テーゼB)という、もっと重要な洞察はどこへいってしまったのだろうか。

というわけで、この本、タイトルが中身をよくない方向(「ぷちナショナリズム、怖いぞ」という安易な煽り――テーゼA)にもっていってしまった一例じゃないかという、ちょっと失礼なことを考えてしまった。できれば続編『鏡像としての「みのもんた」』を書いて、テーゼBのぶんを補って頂きたいなと。

しかしまあ、テーゼA(「ぷちナショナリズム、怖いよ」というメッセージ)を一貫して述べた本として読む方が、レポートを書く上では都合がいいかもしれない。ただ、そういう読み方をすると、なぜ「鏡像としてのみのもんた」が出てくるのか等々、わからない点がでてきて困るかもしれない。

でも、別に誰も困ったりしないんだよなあ。

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February 10, 2007

法学部で学ぶこと

某同僚によれば、法学部というのは法律学を学ぶところなのだそうで、どうやらそういう考え方が一般的なのだということに、40歳前になってはじめて気づかされる。

愚かにもあたくしは、高校生の頃から今に至るまで、法学部というのは、法とか政治を中心としながらも、基本的には社会科学を学ぶところだと思い込んでいたわけで、だからまあ、入学と同時に、社会科学入門とか社会科学方法論の類のものをできるだけ読む努力をしたわけだし、自分が一年生の教育を担当する際にも、まずは社会科学とは何かとかいうような話から始めるよう心がけてきたわけですが……。

しかし、どうも、そういう「わけのわからない」社会科学談義は抜きに、いきなり法律学とか政治学の教科書的なお約束を教える方がいいという意見の方が多いようですなあ。

まあ、学部で専門科目しか教えてこなかった教員にとって、一般教育科目(教養科目)なんてものはもともとどうでもよかったんだろうし、だから教養部がなくなって、学部の教員が初年次の教育を担当するようになれば、こういうことになるのは当然なのかもしれんですが。

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January 29, 2007

小熊英二『日本という国』

……最も恐るべきは貧にして智ある者なり。……世の中の総ての仕組を以て不公不平なものとなし、頻りに之に向て攻撃を試み、或いは財産私有の法廃すべしと云ひ、或いは田地田畑を以て共有公地となすべしと云ひ、其他被傭賃の値上げ、労働時間の減縮等、悉く皆彼等の工風に出でざるはなし。……智恵あるが故に苦痛の苦痛たるを知りて自ら満足するを得ず、其不平の鬱積、遂に破裂して社会党となりたるものなり。貧人に教育を与ふるの利害、思はざる可らざるなり。

もっとも恐ろしい存在は、貧しくて智恵のある者である。……世の中のすべてのしくみを不公平なものだとみなし、しきりにこれにむかって攻撃を試み、私有財産制度をやめろとか、土地を民衆の共有にしろとかいう。そのほか賃金の値上げ、労働時間の短縮など、みんなこういった連中のしわざである。……智恵があるために、自分の境遇を苦痛として感じる能力があり、満足することができない。その不平がつもって、ついには破裂して社会主義政党となって出てきたものだ。貧しい者に教育を与えることは、利益もあるが害もあるということを、考えなければならない。(福澤諭吉「貧富智愚の説」――小熊『日本という国』より重引)

某非常勤の採点がほぼ終わる。半日で終わる予定を大幅に超過。毎回提出される約120人分の小テストの採点を後回しにするとどういうことになるかとか、少しは考えろよ、俺。

頭が教育モードなので、来年度の法政基礎演習で何を読もうかとか、そっち系の本を気分転換に。

とりあえずお約束のように、長谷部『憲法とは何か』(amazon / bk1)とか星野『民法のすすめ』(amazon / bk1)とか大村『父と娘の法入門』(amazon / bk1)とかを読む。どれもすぐれた入門書であることは間違いないのだけど、面白いかどうかだけでいえば、『民法のすすめ』は退屈だし、『父と娘の法入門』は、何というか芸が今ひとつで、特に関西人はしんどいと思う。『憲法とは何か』は面白いのだけど、あたくしがこの本について説明すると、政治理論の講義になりかねない。

とりあえず、これはと思ったのは小熊英二『日本という国』(版元 / amazon / bk1)。日本の近代化の出発点を福澤諭吉で確認した後(第一部)、戦後日本の歩み(第二部)を非常に面白く描いた日本近代史の入門書(理論社中学生以上すべての人の「よりみちパン!セ」の一冊。ちょっとひねった岩波ジュニア新書といった感じのシリーズ)。立ち読みするなら、やっぱり第2章でしょうなあ。

個人的な読後感としては、第一部を読んで「西洋文明の主義」の問題点としての「貧にして智ある者」の問題がその後どうなるのかとかが気になったわけですが、第二部で「貧にして智ある者」の問題は――少なくとも明示的には――展開されてないので、「「貧にして智ある者」はどーなるんだろう?」とか思ったりするわけですが。

まあ、考えさせるための本だから、それでいいのだということかもしれませんが。これは、高校の日本史の夏休みの課題図書なのか、大学の専門科目のレポートの課題図書なのか……。桃だとおそらく後者か。

「谷川俊太郎さんからの四つの質問」というのが付いてますが、設けられた幾つかの質問に順番に答え、最後に必ず笑いをとる……これって大喜利ですなあ。

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December 19, 2006

学部生のITスキルが……

年々低下しているような気がするのはあたくしだけ?

あたくしの周辺に限っていうと、数年前の学部生に比べ、現在の学部生には、

(1)電子メールで添付ファイルを送ることができない
(2)URLを伝えると、いきない Yahoo! JAPAN とかで検索して「見つかりません」と悩む
(3)チルダ(「にょろ」) "~" の打ち方がわからない

等々の事例が見られるのですが……(あと、携帯のメールアドレスを自分で設定できないとか……)。

「最近の学生は、みんな高校でパソコン教わっているから、いちいち大学で教える必要ないよ」という某せんせいの話とずいぶん違うのですが。あるいは、ここにも「格差」のようなものがあるとかいう話なんだろうか。

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November 03, 2006

ノート考

via http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20061025

コーネル大学式ノート作成法というのがあるらしい。ポイントはノート一頁を、

①受講中に講義できいたことをメモするノート(ノートの一頁の左側の三分の一)
②復習時にノートに秩序を与える見出しとか主な考えを整理するキュー(ノート一頁右側の三分の二)
③復習時にキューを書きながら、重要な要点のみを記すサマリー(ノート一頁下五分の一)

という具合に三つに分けて使うということらしい。

【参考】
・実際の勉強法 http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0610/23/news006.html
・各種ツール http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0607/24/news034.html

丸山眞男も、何かの文章で、ノートは見開き二頁のうち、授講中は右側だけを使い、左側は復習のときに書き込めるよう空けておくべきだというようなことを書いていたような記憶があるのだが、要するに、

①基本的に講義を受講中はメモしかとらない。
②授業の後の復習時にノートを完成させる。

ということがノートの基本なのだろうなあ。

基本的にどちらも似たようなものではあるのだが、教員がちゃんと目次を計画的に組み、整理された話をするような講義であれば、コーネル大学方式がいいのだろうが、話が散らかって、目次というようなものが組まれておらず、雑談の時間が長い教員の講義であれば、丸山方式(?)の方がいいような気がする。あと、コーネル大学方式は、A4サイズのノートを使わないと無理だろうなと。(あたくし自身は、B5の大学ノートの見開き二頁の左側を授業用に使い、右側を復習用に空けるという方式でノートをとっていたような記憶が。)

できれば小中高の段階で徹底的に叩き込んでおいて頂ければ、「せんせい、黒板に書いてあることをそのまま書いているのに、ちゃんとしたノートになりません」という苦情が来ることはなくなるだろうと思うのですが。

あ、ひょっとして黒板に書いてあることをそのまま写すように御指導なさっておられますか。ああ、それで大学でも同じようにやってくれということですな。まじめな学生からもそういうアンケートが来てますかそうですか。

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August 07, 2006

受講ノート

細かい点を省略して言えば、二年ぐらい前から、ゼミの担当者はゼミ生の学習支援もやらないといけないというような話になっているのだが、そもそも学部生が学部の講義をどのように受講しているのかという実態を把握しないと話にならないと考え、ゼミ生に、前期に受講した科目の一つについて受講ノートのコピーを提出してもらったのだが……。

教員は、もしも大学生の学力を低下させたくないのであれば、成績評価の方法をどうするかという以前に、自分の講義を聴いている学生が、その講義でどのようなノートを作っているかを実際に見てみる必要があるのではないかと思う。

もしも自分がそれなりに必死に取り組んだはずの講義を受講している学生が、実は約半年かけて、B5のノートに三頁ほど意味不明の殴り書きを残しているだけだとすれば……。

というか、これでどうやって期末試験をのりきっているのだろうか。

ひょっとすると導入教育では、ノートの取り方から指導しないとだめなのかもしれない。

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February 14, 2006

課題例@2006

『法政基礎演習』の課題例を二つ程。字数制限に悩まされる。

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フェミニズム
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【概 説】

フェミニズムについての定義は様々であるが、最大公約数的な定義を試みるならば、それは、女性が女性であるがゆえに権利の侵害をこうむってきたという認識に立脚し、そのような女性差別の撤廃を推進しようとする女性解放の思想ということになるであろう。その大まかな流れは、リベラリズムを基調とするフランス大革命から20世紀前半までの第一波、1960年代以降に現れたラディカル・フェミニズムを中心とする第二波に分けることができる。

第一波の理論的基礎となったリベラル・フェミニズムは、公的領域と私的領域の分離を自明のものと見なし、公的領域における平等な市民権――特に財産権と参政権――が制度的に保証されることで、女性解放が実現されると考えていた。その典型的な現れとしては、19世紀後半の英米で展開された婦人参政権運動を挙げることができる。

これに対し、第二波の端緒となったラディカル・フェミニズムは、こうした公私の区分が肝心の問題を隠蔽しているという認識を出発点としている。その中心的な考え方は、女性解放を妨げる男性支配(「家父長制」)は政治制度のみならず、経済制度や社会制度によっても支えられており、実はリベラル・フェミニズムが等閑視した性や家族といった私的領域こそが社会的な女性抑圧・性的偏見(ジェンダー・バイアス)を再生産しているというものであり、こうした考え方は「個人的なことは政治的である The Personal is political」という有名なスローガンにまとめられている。

但し、法や政治といった制度の整備を重視するリベラル・フェミニズムと「家父長制」の打破を重視するラディカル・フェミニズムが果たしてそれほど対立する考え方といえるかどうかについては疑問の声もあり、たとえばラディカル・フェミニズムの知見を踏まえつつ、リベラル・フェミニズムのバージョン・アップを図る試みもなされている(野崎綾子『正義・家族・法の構造変換』)。法学・政治学を学ぶ者がフェミニズムやジェンダー研究の知見から得るべきことは計り知れない。

【参考文献】
・江原由美子・金井淑子編『ワードマップ フェミニズム』(新曜社、1997)
・江原由美子・金井淑子編『フェミニズムの名著50』(平凡社、2002)
・野崎綾子『正義・家族・法の構造変換』(勁草書房、2003)
・鹿嶋敬『男女共同参画の時代』(岩波新書、2003)
・読売新聞政治部『法律はこうして生まれた』(中公新書ラクレ、2003)

【関連事項について調べてみよう】

1.内閣府男女共同参画局のホームページ(http://www.gender.go.jp/)を手がかりに、「男女共同参画社会」について現在どのような議論と取り組みがなされているか調べてみよう。

2. 1988年の流行語となった「アグネス論争」(「子連れ出勤」論争)について調べてみよう。

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「不平等社会日本」と「意欲格差社会」
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【概 説】

内閣府(旧総理府)の世論調査によれば、1960年代後半以降、我が国の国民の九割は自分のことを「中流」だと考えており、特に1970-1980年代において「一億総中流」という国民意識が概ね共有されていたことはおそらく間違いない。しかし近年、こうした「一億総中流」社会の崩壊と様々の「格差」や「不平等」の深刻化が指摘されている(「中流崩壊」論争)。

1955-95年の計五回のSSM調査(社会階層と社会移動全国調査)をもとに職業の継承性(親子間)の推移を見ると、「ホワイトカラー雇用上層」(W雇上)の継承率――企業の管理職・専門職を主職とする父親を持つ者が、同じく企業の管理職・専門職に就く率――は55年から75年にかけて著しく低下している。従って、戦前に比べると、この時期に、父親の社会的地位に関係なく「勉強してよい学校を出ればよい仕事につける」可能性が高まったことは間違いない。実際、「新中間大衆社会」の活力を根底において支えていたのは、こうした「誰でも努力すれば高い学歴を得てよい仕事に就ける」という感覚であった。しかし、佐藤俊樹の指摘によれば、実は85年の調査を境に父親の高い社会的地位が子に継承される率が急激に高まっており、「W雇上」の父親を持たない者が「W雇上」になれる可能性は戦前と同じぐらいにまで低下している。すなわち、「父の職業」という本人にはまったく責任のない属性によって、人々は覆しがたい格差を強いられているのである。そして、こうした社会的地位格差が世代間で再生産され続ければ、戦後の日本社会を支えてきた「努力すれば途は開ける」という価値観は崩壊せざるを得ない(「「新中間大衆」誕生から20年」『論争・中流崩壊』所収)。

また教育学者の苅谷剛彦によれば、所得格差や雇用の不安定化によって、教育における階層化の拡大、就中、「インセンティブ・ディバイド」(意欲格差)――「意欲をもつ者ともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化」と「降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動」――が深刻化しているという(『階層化日本と教育危機』)。今や戦後の日本社会は根本的に変容しつつあるのである。

【参考文献】
・佐藤俊樹『不平等社会日本――さよなら総中流』(中公新書、2000)
・「中央公論」編集部編『論争・中流崩壊』(2001中公新書ラクレ、2001)
・苅谷剛彦『階層化日本と教育危機――不平等再生産から意欲格差社会へ』(有信堂、2001)
・山田昌弘『希望格差社会――「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』(筑摩書房、2004)
・本田由紀ほか『「ニート」って言うな!』(光文社新書、2006)

【関連事項について調べてみよう】

1.「意欲格差社会」や「希望格差社会」の到来に対して、各方面からどのような政策提言がなされているか、参考文献を手がかりに、調べてみよう。

2.本田ほか『「ニート」って言うな!』第三部等の資料を手がかりに、我が国において「ニート」がどのように論じられてきたか、整理してみよう。

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