藤崎マーケット
授業準備。近世儒学でエクササーイズ。荻生徂ラララライ……。
某授業で教科書に指定した『日本政治思想史』、明治維新に入る前に、「第一章 近世思想の遺産」の話をしなければならない。わずか30頁足らずだが、朱子学的思惟の解体と国学イデオロギーの展開という日本政治思想史研究においておそらく最も濃厚な話がまとめられている。まあ丸山『日本政治思想史研究』のメインテーマだし……。
二単位科目で(つまり30時間以内で)西洋政治思想史の講義をする場合、一般に(かどうか知らんが……)後半のメインの話は「近代」的な政治思想の形成――「自然法の世俗化」と「社会契約説の成立」――の物語になるのではないかと思う。つまり、〈政治社会のルールは、神によって自然的なものとして与えられた法である〉という中世のキリスト教的自然法思想(トマス・アクィナスとか)が、〈政治社会とそのルールは、自然権において平等な人々が、作為=社会契約によって作りあげたものである〉という近代自然法思想(ホッブズとかロック)へと世俗化していったという物語。もう少し細かくいうと、〈神によって自然的なものとして与えられた政治社会〉(トマス)→〈君主が作為によって作り上げた国家〉(マキアヴェリ)いう第一段階(ルネサンス人文主義によるキリスト教自然法思想の解体)と、自然権において平等であり(ホッブズ)、理性においても平等な(デカルト)ひとびとが、「生命・自由・財産」という「プロパティ」の保護という世俗的な目的のために(ロック)対等な立場で社会契約を行うという社会契約説の成立という第二段階に分けた方がいいのだが。(ボダン、グロティウス、プーフェンドルフとか省略してますが何か?)
で、近代日本の場合はどうだったのかというと、「プロパティ」の保護という外面的な目的に限定された「中立国家」という近代的な政治論は、残念ながら成立しなかった。では、初期近代の日本の政治思想を、「自然法の世俗化」と「社会契約説の成立」という観点から見るとどうなるのか。幸い(?)日本の近世の朱子学にはキリスト教自然法とよく似た思惟様式――自然法則と道徳法則とを、また政治社会の倫理と個人の道徳とを、同一の次元で捉える前近代的発想――が見られるし、そうした思惟様式を――ルネサンス人文主義がそうしたように――古代の書物についての文献学的な研究によって解体していくという作法も伊藤仁斎や荻生徂徠の朱子学批判の中にある。つまり、ルネサンス期におけるキリスト教自然法の解体との類比において、近世における朱子学的思惟の解体の政治思想的意義を探ってみよう。――というのが、日本政治思想史において近世を語る際の「お約束」になっている。
そこで、この朱子学的思惟の解体というプロセスにおいて、あたかもトマス的なキリスト教自然法を解体し、君主の作為を政治の中心に据えたマキアヴェッリの如き役割を果たした存在としてクローズ・アップされるのが荻生徂徠。そして、この徂徠の偉業についてイメージを掴む上で非常に分かりやすい「二つの事例」として丸山が挙げているのが「親棄の罪」で道入(どうにゅう)という男が捕らえられた事件と、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)邸への赤穂浪士の討ち入り事件(『日本政治思想史研究』71頁以下)。幸い、この箇所については、源了圓『徳川思想小史』に明快なパラフレーズが。まずは道入の「親棄」事件。
ところで彼〔荻生徂徠〕が〔柳沢〕吉保に仕えて間もない頃、吉保の所領川越(かわごえ)で、ある農民〔道入〕が生活に困り、妻を離縁し、みずからは剃髪して老母をともなって流浪の途中、母が病気して暮らせなくなり、病む母を遺棄して自分だけ江戸に出て、親棄の罪として捕らえられた、という事件があった。吉保は多くの儒者たちを召してその意見を聞いたが、彼らは心のあり方の詮議に熱心な朱子学者たちであったから、この男には親を捨てる意志がなかったのだし、この事件は親捨てとは申しがたい、と返答した。それに満足できなかった吉保は、誰か別の考えの者はないかと聞いた。このとき末座に控えていた徂徠は、これらの儒者とはちがった動機から、やはり親捨てとは認めがたいといった。その理由は以下のごとくである。――もし世の中が飢饉にでも見舞われたらこういう人間はたくさん出るだろう。これを親捨ての刑に処するならば、他領にも悪い手本を示すことになる。自分の考えでは、このような人間を出したのは、第一、代官や郡奉行の責任だし、また家老の科(とが)でもある。この男の咎はそれにくらべたら軽いものだ。――吉保はこれを聞いてもっともと思い、この後しだいに徂徠を重く用いるようになった。実はウェーバー解釈上の面倒な問題があるのだが、とりあえずそれは措くとして、「修身斉家治国平天下」(身を修め、家を斉え、国を治め、天下を平らにする)という風に私と公とを倫理的に連続したものと捉えるのが朱子学的思惟様式の特徴の一つであるとすれば、徂徠には、私と公を切り離した上で、後者の観点から道入の「親棄」を眺める新しい思惟様式が芽生えていたということか。続いて吉良邸に討ち入った赤穂浪士の事件。ここには一人の憐れな男の心情や動機を問うよりも、政治的に責任ある人々の政治的行為の責任を問うという、ウェーバーのいわゆる「心情倫理」にたいする「責任倫理」の優位という考えがある。公の世界には心情倫理を適用してはいけないというのが、彼の教えであった。それは公の世界と私の世界、政治の世界と道徳の世界を連続的に捉え、しかも公の世界・政治の世界に心情倫理を適用する一般の儒者たちの考えにたいする大きな挑戦であった(『徳川思想小史』、67-68頁。下線による強調とかは引用者による――以下同じ)。
こうした彼〔徂徠〕の考えがより劇的な場面に適用されたのが例の赤穂浪士の処分問題であった。大石良雄以下の浪士たちをどのように処分するかは、幕府当局にとっては重大な問題であった。というのは徳川の体制は、一方においては、武士たちの情誼(じょうぎ)的関係を基礎として成りたつ封建的支配組織であるとともに、他方では、それは全国的規模において効力を持つ法によって運営される公権力として中央集権的性格をもっている(浪士たちの行為との関係でいえば、武士たちが主君や親の仇討ちをすることを義務付けられているのが前者の側面を示すし、殿中で人を殺傷した者は死刑になるという法は後者の側面を示している)。多くの助命論者は期せずして前者を代表する立場であったし、厳刑論者はもちろん中央政府としての幕府権力を支持する人々であった。幕府は、その政治権力としての構造上の矛盾を創業以来もっていたのであるが、浪士の処分問題は、この二重構造のいずれを選ぶのかという決断を幕府に迫るものであった。当時の儒者たちの朱子学的思惟様式における「私の論」(個人道徳)と「公の論」(政治的・法的規範)の無媒介的な連関を断ち切り、「私の情」と「公の政治」のそれぞれを自律的なものと捉えなおすことで成立した徂徠の政治論。その核心部分については以下のように。とうぜん、一つの解答を出すにあたって、幕閣には非常な混乱がおこった。『徳川実紀』はそのさまを「其義を賞して助命せんといふもあり、又は此輩(このはい)が主のためにせしをもて助けられんに於ては、此後(こののち)罪蒙りしもの、臣子、報讐を名としひがふるまひして、大乱を引出すもとひとなるまじきにあらずといふもあり、在朝諸大臣の議一決せざりしかば、云々」としるしている。
けっきょくこの事件は日光門主公弁法親王と徂徠によって提起された方針によって解決された。徂徠の幕府の下問にたいする奉答書と目されている「徂徠擬律書」は次のような簡潔なものである。
義は己を潔くするの道にして、法は天下の規矩(きく)なり、己を潔くするは義なりと雖も、畢竟は私の論なり、其ゆへんのものは、元是(もとこれ)長矩殿(ながのりどの)〔浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)のこと〕殿中(でんちゅう)を憚らず其罪に処せられしを、又候(またぞろ)吉良氏を以って仇と為し、公義の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所なり、今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以って切腹に処せらるるものならば、上杉家〔吉良上野介の実子上杉綱憲〕の願も空しからずして、尤も公論と言ふべし、若し私論を以って公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず。これは私の世界と公の世界、個人道徳と政治・法律との連続性を断ち切って、公の世界、政治・法律の優位ということを確立していた徂徠においてはじめて確言できた言葉であった。そしてこの決定によって、幕府は法によって運営される中央集権国家の政府であることをみずから証したと考えてよいであろう。…………徂徠は浪士たちの処分を主張しているが、しかしそれが梟首(きょうしゅ)〔晒し首〕・斬罪(ざんざい)〔打ち首〕等の厳刑ではなく、切腹であったということを見落としてはならないであろう。切腹ということによって、一方においては浪士たちの心情をくみ、武士としての名誉も守ってやりながら、法にそむいた行為は、きっぱりと法の立場で処罰すべきだというのが徂徠の立場である。……徂徠の学問と思想は、ここにみられるように、公の政治の世界と、私の情の世界とを分離しつつ、しかも統合したものであった。(同上、68-70頁)
……徂徠における道とは、聖人の道、先王の作為された道であり、国や天下を治め安んずる道、であった。このように彼の説く道はきわめて政治的性格のものであり、徂徠はこのような立場にたって、しかし、あまり「〈徂徠≒マキアヴェッリ〉における〈朱子学的思惟様式≒キリスト教的自然法〉の解体と、政治の発見」みたいな話ばかりに時間を費やすと、仁斎とか徂徠の〈忘却された古代の学問についての文献学的研究〉という人文学の方法論が、結果的には国学イデオロギーの成立に関わってくるという後半の話ができなくなってしまいそうな悪寒も。儒者ノ輩、聖人ノ道ハ天下国家ヲ治ムル道ナリト云フ事ヲバ第二ニシテ、天理、人欲、理気、陰陽五行ナドスル高妙ナル説ヲ先トシ、持敬、主静、格物、致知、誠意、誠〔正〕心ナド云ル坊主ラシキ事ヲ誠ノ事ト思ヒ(『太平策』)、かくて是非の論のみ多くなって、聖人の道は政道とはまったくちがうことのように考えられていることを批判している。どれほど至誠惻怛(しせいそくだつ)の心があっても、それが民を安んずることのできないものであれば、それは徒仁であり、婦人の仁にすぎない、と考える。これは為政者が道徳的に立派であれば、同心円的に天下国家も立派に治まる、という朱子学の政治道徳とは根本的に異なる。政治と道徳とは一線を画するべきである。為政者の主観的心術よりも、その政治的行為がどのような結果をもたらすか、ということが問われなければならない、これが徂徠の政治観であって、政治家が道徳的にすぐれた行為に心がけるのは、その方が民が政治家に服するからにすぎない――彼はこのような功利的考えさえ述べている。ここにおいて道徳の世界から独立した政治の世界が発見された、といってよい。
ところでこの政治の内容は何であるか。徂徠のいう治国安民の政治の道は「礼楽刑政」その他先王の制作した制度文物である。道は「自然の道」ではなく、聖人の制作にかかる「作為の道」である。なぜ徂徠は「先王の道は外に在り」とし、礼楽制度という外面的なものを支配の原理と考えたか。それは彼が心の問題に関してペシミスティックな見解をとったからであり、彼は「心は形なき也。得て之を制すべからず。故に先王の道は礼を以って心を制す」という。現実主義者で、人間性の冷徹な観察者であった彼は、朱子学的道徳政治にも、仁斎的な道徳への期待も共にもつことができる、制度を通じてなされる政治に多くの期待をよせたのであろう。(72-73頁)
そういえば……と思い出したように、苅部直『丸山眞男』をくると、次のような簡潔な説明が。
丸山の助手論文は、徳川時代の儒学思想の内部で、「近代意識の成長」が始まり、やがてそれが、荻生徂徠という転機をへて、国学という対立物を生むに至った、「思惟様式」の変遷をたどっている。ここで「近代的なもの」の指標とされるのは、それまでひとつながりのものと考えられていた政治の世界と人間の道徳との間に、鋭いくさびが打ちこまれ、「公的」な領域に固有の論理が認められるとともに、「私的」な領域での個人の活動が、多様なものとして解放されることである[集1:226]。とりあえず、「自然法の世俗化」と「社会契約説の成立」みたいな前ふりをして、赤穂浪士事件についての徂徠の判断を紹介し、近世における「政治の発見」について多少の説明を……という感じになるだろうか。……朱子学の思想体系は、天地自然の運動法則と人間界とを、同一の理法が貫いているととらえ、その両面の「道」を身分道徳に従属させた。これに対して徂徠は、儒学の経典が説く人間の「道」とは、あくまでも統治のための制度として、中国古代の君主であった「先王」すなわち「聖人」が作ったものであり、自然界の理法とは別物だと切りわける。そして秩序と個人との関係についても、「公的=政治的なもの」としての「道」の外側に、「私的=内面的生活」としての「人間の自然的性情」を解放した[集1:229]。
丸山はこのように解釈し、十六世紀のフィレンツェで、ニッコロ・マキアヴェッリの『君主論』が「政治の固有法則性」を指摘したのと似た、「政治の発見」を徂徠に見る[集1:205、213]。そして、「政治」が支える、制度に枠づけされた秩序のもとで、「諸々の文化価値の独立」がなされ、心情の赤裸々な解放と、さまざまな信条への「寛容」が確立することが、「近代意識の成長」だと説いて、徂徠から宣長に至る思想の系譜には、その萌芽が見られるとした[集1:206、289、304]。大学時代の丸山がその意義をふりかえるようになった「近代的なもの」は、ここに初めて、明確な形をとるに至ったのである。(97-98頁)
あと、徂徠豆腐の話も、できれば。

