Tuesday, November 11, 2008

ウォルツァー『正しい戦争と不正な戦争』

ウォルツァー『正しい戦争と不正な戦争』(amazon)、監訳者の萩原能久せんせいから頂きました。どうもありがとうございます。

細かいことは後ほど書こうと思いますが、これほど重要な翻訳が、しかも4000円+税という価格で出たことにテンションが上がっております。4000円なら、生協の15%引きで3400円+税だし、テキストに指定できるぎりぎりのお値段。しかも『風のたより』には、『はじめて学ぶ政治学』でこの本の解説をお書きになった早川誠さんのエッセイ「幸福な政治の曖昧な帰結」。ついつい来年度のゼミで読むか、某講義のテキストに……と考えてしまいます。まだシラバスの〆切は来てないし。こういう本は、複数のメンバーで、ゆっくり読む機会を設けたいのですが……。

しかし、風行社さん、相変わらずウェブページのタイトルと内容とが対応してないのですが、誰も気づいてないんでしょうか(例えば、あたくしのこれは、『道徳の厚みと広がり』についての文章ではないのですが……)。

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Saturday, January 13, 2007

ウォルツァー『政治と情念』あるいは負けないための政治理論

『政治と情念――より平等なリベラリズムへ』(amazon / bk1)、年末に訳者の皆様から頂いておりました。ありがとうございます。

この本の中核部分(第四章まで)のアソシエーション論については、「訳者あとがき」278-288頁のコメントが必読。これもまあ境界線と系譜学がらみの問題ですなあ。

とりあえず、デモクラシーな方々にとっては必読の第五章「討議と……そのほかには何が?」について少しメモを。

まずは北米系ハーバーマシアンへの軽い挑発。

討議デモクラシーは、コミュニケーション行為と理想的発話状態についてのドイツの理論のアメリカ版である。特徴的なことに、討議デモクラシーは、哲学的な展開と正当化に関してはより低い水準にあり――そのおかげで討議デモクラシーは、そうした低い水準で生きている私のような人々にはいっそう近寄りやすくなっている――、しかもそれを擁護する人々は、ドイツの哲学者たちに比べるともっと気安く公共政策や制度的仕組みの問題に注意を向ける。

討議デモクラシーを擁護する人々が焦点を合わせるのは、人間の言説についての理性的に確証可能な前提条件についてではなくて、規範的に制約づけられた政治的議論の実践的な組織化と、そうした議論から予想される帰結についてである。前提条件は、それらの哲学的な位置に関する手の込んだ証明を抜きにして前提される。

それでもやはり〔つまり哲学的な証明は省略されているし、実際にどういう政策をとれば討議デモクラシーっぽいかみたいなルーズな議論ばかりに熱中してはいるのだが〕討議デモクラシーが、一応は政治についての《理論》であることは歴然としており、それはアメリカのリベラリズムの一つの興味深い展開――法とか権利についての言説から、政策決定についての言説への移行――を代表している。二つの言説のうち後者〔政治論〕が前者〔法権利論〕の残像をとどめており、後に示されるように、いまなお法廷を例に考えたがるというバイアスを残していることはたしかだが、しかし、にも関わらず、近年の討議デモクラシーについての書物と論文の奔流は印象的であるし、その中には説得的な議論も少なからずある。(151-152頁、訳文いじってます。)

まあ、理想的発話状態についての長話につきあうのは、うっとおしいといえばうっとおしいのだが、それを省略してしまうと討議デモクラシーって……。

次に、法廷を例に考えたがるバイアス("a certain bias for courtroom", p.91)について。

……たしかに、裁判所は複雑な憲法上の構造の内部に存在しているかぎりにおいて政治的な制度であるし、判事はときに自分たちが立法権および執行権を行使する公職者と抗争の状態にあるのを見出すことができる。しかし、民事あるいは刑事訴訟が公判中のときは、政治的な考慮は排除されるべきものとされている。政治的な考慮が排除される理由とは、私たちが通常もっている、裁判にはただ一つの正しい結果があり、陪審員と判事は一丸となってその結果を追求しているか、あるいは追求すべきであるという想定である。政治的s英勝においてはそのような想定はいっさい成り立たない。政治的生活はたんに敵対関係を含むだけではなく、内在的に、そして永遠に抗争につきまとわれるからである。(171頁)
政治というのは、問題が永久に解決されない営みなので、法廷を例に考えるのってどうよと。
異なったさまざまな利益やイデオロギー的コミットメントがしばしば和解不可能であるのを認識するためには、政治を戦争の一形態とみなすカール・シュミットの見解を採用する必要はない。抗争の関係にある当事者たちも、たしかに交渉し、決着を見出し、そして自分自身とその決着の間で折り合いをつける。

しかし彼らは、交渉の過程で何かが失われたと感じており、都合のいい条件が揃ったと思えばいつでも議論を再開する権利を留保する見通しが高いのである。私たちは同じ罪に関して二度訴求をうけることから犯罪者を保護するが、同じ争点に関して繰り返し挑戦を受けることから政治家を保護したりしない。〔つまり、政治においては同じ争点について何度でも繰り返し対立が発生しうる。〕

政治的生活において永遠の決着がまれであるのは、争われている争点に関して評決に至る筋道が私たちにはないからにほかならない。情念は醒めてゆき、男も女も特定のコミットメントから離れてゆき、利益団体は新しい同盟を結び、かくて世界はまわる。しかし一定の深い意見の相違、たとえば左翼と右翼、資本家と労働者の間の相違は、注目に値するほど長続きしており、さまざまな地域的形態をとった宗教的、民族的な抗争は、政治文化のなかにあまりに深く根を下ろしているので、その参加者にとっては自然なものに見える。

それゆえ政治とは、こうした意見の相違や抗争への果てしない回帰であり、それらを何とかして管理し抑制しようとする闘争であり、しかも同時に、手に入るどんなつかの間の勝利でも勝ち取ろうとする闘争でもあるのだ。この闘争に勝とうとする民主的なやり方は、相手よりも多くの人々を教育し、組織化し、そして動員することである。「相手よりも多い」ということが、勝利を正統なものにするのであって、問題になっている実質的な争点に関してよい議論ができれば正統性は強化されるとはいえ、よい議論によって勝利が勝ち取られることはまれにしかないのである。(172-173頁)

何というかウォルツァーというのは、「正しい」だけでなく、「勝てる」政治学を考えているのだなあと。正しいだけで、結局は負けちゃうような政治理論ではだめなのだな。

きっと負け続けた経験があるのだろうなとか、そういう意地悪な目で見てはいけないのだろうが……。

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Tuesday, December 12, 2006

politics and passion

拙稿「非リベラルな考察によるリベラリズムの刷新」が載っている『風のたより』第30号(20061208)が届く。近刊のウォルツァー『政治と情念――より平等なリベラリズムへ』(風行社 / amazon / bk1)についての短い書評(風行社のHPはここ、「風のたより」のBNはここ)。原稿提出がちょっと遅れたのは、最初に思いついたタイトル「リはリベラリズムのリ」で書こうとして、うまく書けなかったという情けない理由のため。書く前からタイトルだけを考えてはだめということですな。

#風行社ウェブにて公開されました(「非リベラルな考察によるリベラリズムの刷新――マイケル・ウォルツァー著『政治と情念:より平等なリベラリズムへ』を読んで 」)。

『政治と情念』の見どころは……リベラル・デモクラシーを維持するためには何が必要かという議論と、第五章での「熟議の民主政」批判でしょうか。邦訳が出たら、ちょっとまた見直しておこうと思ってますが。

おそらくウォルツァーについて書くのは最初で最後だろうなあ。

掲載号、たくさんもらったのですが、わずか3頁の原稿だし、いずれウェブで公開されるだろうから、本務校の所属講座とあたくしが代表の科研のメンバーに配りました。マイケル(ウォルツァー)論なんて要らんという方も少なくないでしょうが、「ドンマイケル」ということで。

……と思ったらマイケル、母親の看病のために、11月中旬から芸能活動休止中だとか。ファンとしては、頑張って欲しいと心より。

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