Sunday, December 30, 2007

オークショット『リヴァイアサン序説』

訳者の中金聡さんから、マイケル・オークショット『リヴァイアサン序説』(amazon)を頂きました。ありがとうございます。名著『オークショットの政治哲学』(amazon)の著者によるOakeshott 2000(ここで公開されているブツ)の全訳に、素晴らしい「解説」を付したもの。訳文もお見事というか、オークショットの英文がここまで読みやすい日本語になっていることにギザ驚愕しております。

オークショットについては、難解な文章で深遠な近代批判を展開している保守主義者としてありがたがる向きと、リベラルな "civil association" の思想家として評価する方々(その代表は『共生の作法』の井上達夫)がおられるわけですが、後者の "civil association" 論が、ホッブズ『リヴァイアサン』の読解の中からできあがってくる様子を、同時代的背景についての詳細な解説つきで読むことができまつ。言い方は変ですが、玄人好みのオークショット入門書になっているというか、『経験とその様態』『政治における合理主義』『人間行為論』という三つの主著がどんな風に繋がっているかが分かるようになっています。

残念なのは、さて、ではオークショットの『政治における合理主義』とか『人間行為論』と読み比べて……と思っても、前者は二種類も邦訳があるにも関わらず、入手が困難であるし、後者は部分訳しかないということでしょうか。あと、イギリス観念論との関連でオークショットを捉え直せないかとか思っているあたくしにとっては、まず未邦訳の『経験とその様態』を通読することが課題なのですが、まだ果たせておりませぬ。

2007年は何だか重要な翻訳がたくさん出たような気が。今机の回りを見回しただけでも、ムルホール&スウィフト『リベラル・コミュニタリアン論争』(amazon)、ヴィローリの『パトリオティズムとナショナリズム――自由を守る祖国愛』(amazon)と『マキァヴェッリの生涯――その微笑の謎』(amazon)、「あんたのいってることは所詮、歴史を欠いた、ただのスナップショットじゃねえか」という突っ込みの入れ方を教えてくれたスコッチポルの『失われた民主主義――メンバーシップからマネージメントへ』(amazon)、シュミット著作集のI(amazon)とII(amazon)、それにこのオークショット『リヴァイアサン序説』(amazon)で七冊。これに未購入の、ウォリン『政治とヴィジョン』(amazon)、ポーコック『マキャベリアン・モーメント』、ミラー『ナショナリティについて』(amazon杉田せんせいの書評)を加えると、2007年の収穫ベスト10といってもいいようなものばかり。

あとジョナサン・ハスラム『誠実という悪徳――E・H・カー 1892-1982』(amazon)、マーティン・ワイト『国際理論――三つの伝統』(amazon)ベンジャミン・バーバー『〈私たち〉の場所――消費社会から市民社会をとりもどす』(amazon)もありましたなあ。

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Wednesday, August 30, 2006

イギリス理想主義研究会@京大会館20060826

会計監査等のために午前中から参加。午後は、基調講演、第一報告、第二報告のみ。というか、第一報告はあたくし自身の報告であったわけですが。

基調報告は、向井清せんせいの「カーライル」。向井せんせいは日本国内ではおそらくカーライル研究の第一人者ではないだろうか。非常に貴重なお話だったので、二点ほど質問。カーライルのあの極端なまでの禁欲主義の源泉と、にも関わらず若い頃のジョン・ミルとかマシュー・アーノルドをいかれさせたカーライルの思想家としての魅力の所在について。

第一報告はイギリス理想主義(より正確には「ブリテン観念論」)における審美主義の問題をバークを素材にして。司会とコメントは広大の桑島くん。バーク美学に関して日本国内ではいちばんよく知っている人なので、逆にいろいろ尋ねてしまう。但し、やや細かい話になりすぎたせいか、オーディエンスはほとんど無反応。

第二報告は大塚桂さんの「ラスキとドイツ政治思想」。シュミットのケルゼン批判、ラスキ批判の話。質疑応答の議論が、イギリス思想史における理想主義(観念論)と多元主義との関係や如何という極めて興味深いテーマに突入する寸前で止まったことは多少残念だったのではないかと。ブリテンにおける観念論と多元主義の関係については誰かがちゃんとやらないといけないわけだが……。(ええと近いうちに「『政治的なものの概念』のケルゼン批判」「『政治神学』のラスキ批判」の箇所を抜き書きしておかないと。)

会長の行安せんせいに「研究会の今後のためには、会員を増やすよりも、まずはブリテン観念論についての論文集を刊行する必要があるのではないか」と私見をば。こういうものも出ているので、グリーン、コリンウッド、オークショットのそれぞれについて3人ずつぐらいで60枚規模(24000字=24頁)の論文を書いて、序論を付ければ240頁ぐらいで、結構中身のある本ができると思うのですが。グリーン、コリンウッド、オークショットについて書いてくれそうな人を3人ずつ(できれば、倫理/政治思想/法哲学)探すことはそれほど難しいことではないだろうし。

さる若手曰く「多忙な研究者でありたい」ということなのだが、あたくしのようにまとまらない仕事で勝手に「忙しい」と自称している人もいれば、某せんせいのように「暇」そうでいて、ちゃんと立派な仕事を着実に残している人もいるわけで、「多忙」かどうかで研究者の値打ちをはかるのは如何なものかと。

私見では、結局のところ具体的にどういう仕事(論文)を残せたかということがいちばん大事だと思うのですが。それと、その仕事(論文)が中身のあるいい仕事であるかどうかは、自分の信頼できる読者とほかならぬ自分自身がその仕事をどう評価するかで決まると思います。それで学位がとれたかどうかとか、本になったかどうかとかいうことをずいぶん気にする人もいるのですが、くだらない博士論文とか、くだらない本とか山ほどあるわけだから、そういうのってどうでもいいような気がします。(自分を含む)自分にとっての「信頼できる読者」の評価が全てではないでしょうか。あたくしは、そういう評価の方を信じたいですなあ。

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Tuesday, September 06, 2005

"to keep afloat on an even keel ..."

「政治とは何か」という厄介な問いを抱えつつ、オークショットなどに手を伸ばすと、何というか、問いはますます厄介なものになってしまう。

政治活動においては、人々ははてしなく底も知れない海を行くのであるが、そこには、停泊できる港もなければ、投錨するための海床もない。また、出航地点もなければ、目ざされる目的地もない。そこでの企ては、ただ船を水平に保って浮かびつづけることである。海は、友でも敵でもあり、船乗りの仕事は、行動の様式という資産をうまく使いこなして、すべての敵対的状況を友好的なものへ転化することである(RP: 60=147) 。(RP = Michael Oakeshott, Rationalism in Politics and Other Essays: New and Expanded Edition, Liberty Fund, 1991. 抄訳『政治における合理主義』勁草書房、1988)
最も賢明な対応は、クリックを引用しつつ、手を引っ込めることかもしれない。
オークショットがなにを述べているか、を正確につかむことは、いつでもたやすいとはかぎらない。一つにはこれは彼自身に責任がある。彼は、誤解されるであろうという確信が強いあまりに、しばしばそれを歓迎しているかにみえる。彼はつねに嘲弄すべきより多くの愚か者(とくに自称弟子気取りの連中)を発見できるのだ。また一つにはその著名な文体のゆえでもある。それは、トリックと奇想、バロック風から談話風へのあっと驚くような飛躍、旋律の急速な交響楽的変調、辞句上の逆説と思いもかけぬ隠喩などで満ちているため、それ自身目的になってしまっている。彼の文体は、温和にいえば、「命題的散文」ではない。たいへん長い文章のなかの、多くの断言や機智に富んだ限定のいったいどこに重点があるのか、はっきりしないことがしばしばある。そして、彼は少なくとも三つの異なった声で語る(バーナード・クリック「マイケル・オークショットの世界」『政治理論と実際の間 2』みすず書房、1976、7-8頁)。
とりあえず、オークショットにとって政治という営みがどういうものであったかを明らかにするには、それがどういうものでなかったかを整理するに如くはない。オークショットによれば、政治という営みを「秩序を作ること」と見なすことは適当ではない。すなわち、それは「整序化に関わること」ではあっても、「秩序を作ること」では断じてない。
政治ということで私が理解するのは、たまたまにせよ意図してにせよ、いっしょになった一群の人々を整序する活動一般に関わる行動のことである。この意味で、家族、クラブ、学会なども、それぞれの「政治」をもっているのである。しかし、このような行動が歴然としている共同体は、以下のようなものである。つまり、その多くは古代の血族で、またそのいずれもが、自然の過去・現在・未来を意識しているような世襲的な協同体、即ち我々が「国家」と呼ぶものである。……今日我々が次第によく理解するようになってきたように、この活動は、集団のどんな構成員にせよ、子供や狂人でもないかぎり、何らかの形で参加し、また何らかの責任を担わざるを得ないものなのである。我々に関するかぎり、それはある意味では、一つの普遍的な活動になってしまっているのである。

私がこの活動を「整序化に関わること」と言い、「秩序を作ること」とは呼ばないのは、これらの世襲的共同体において、行動は、決して無限な可能性をもつ白紙状態で与えられることはないからである。いかなる世代でも、その最も革命的な世代においてすら、成立している秩序は意識されるべきものをいつもはるかに越えているのであり、とってかわり得る新秩序などは、手直しを受けて維持されるものと比べて、わずかでしかないのだ。新しいものは、全体の内のとるに足らない割合しか占めていないのである(RP:44-45=129-130)。

面倒なのは、オークショットが自らの政治概念――「世襲的な協同体」の存在を前提として「整序化に関わること」――の内実についてあまり多くを語らず、むしろ、政治を「無限な可能性をもつ白紙状態」から「秩序を作ること」と見なす見解――彼はそれを「政治における合理主義」と呼んでいる――に対する批判に多くを費やしていることであろう。
私が政治における合理主義と呼ぶものは、……今日のヨーロッパの知的構成の中に含まれる他の多くの強力な要素を子孫とし、それらに支えられることで、一派のではなくすべての政治的信念の様々な理念に色づけを与え、あらゆる政治路線を越えて貫流することになった、一つの強力で生き生きとした思考のあり方なのである。あれこれの道を経て、信念から、仮定上の不可避性から、それの所謂成功から、そして場合によってはまったく無自覚なまま、今日ほとんどすべての政治は、合理主義または合理主義類似の政治になってしまったのである(RP :5=1-2)。
「合理主義」とは何か。これを説明するために、オークショットは有名な知の二類型----「技術知」(technical knowledge)=「技術の知識」(knowledge of technique)と「実践知」(practical knowledge)=「伝統的知識」(traditional knowledge)----を導入する。
全ての科学、全ての芸術、何らかの技術を必要とするすべての実践活動、実際、人間のあらゆる活動は、知を要素としている。そしてこの知は例外なく二つの種類からなっており、その双方がどんな現実の活動にも含まれている。……初めの種類の知を、技術知または技術の知識と呼ぶことにする。……第二の種類の知は、使用の内にのみあることから実践知と呼ぶことにする(RP :12=8-9)。

〔実践知〕の普通の表現は、物事を行なう慣習的、伝統的やり方の中、つまり実践の中にある。そしてこのことは実践知に、不明確、その結果不確実、見解の問題、真理ではなく蓋然性、という外観を与えるのである。確かにそれは、趣味または鑑識眼の内に表現される、厳密性に欠け、学ぶ者の精神の刻印を受け易いような知なのである(RP :15 =11)。

私の理解に従えば、合理主義とは、私が実践知と呼んだものはまったく知ではないのだ、という言明のことであり、正しく言うなら技術知以外の知などはないのだ、という言明のことである。合理主義者の立場からは、あらゆる人間活動に含まれる知の唯一の構成要素は技術知であり、私が実践知と呼んだものは、実際にはある種の無知であって、たとえ積極的に有害でないとしても無視できるものだ、とされる。合理主義者にとって「理性の至上」とは技術の至上を意味するのである(RP :15-16=12)。

私は、あらゆる具体的活動に含まれている知は、決して技術知だけではない、と示唆した。もしこれが正しければ、合理主義者の誤りは単純な種類のそれであるように思われる。つまりそれは、部分を全体と取り違える誤りであり、部分に全体の持っている性質を授けてしまうという誤り、である。しかし合理主義者の誤りは、それに留まる訳ではない。彼の大いなる幻想が技術の至上性にあるとすれば、彼はまた、技術知の外見上の確実性によっても、同じく欺かれているのである。技術知の優越性は、純粋な無知から出発して確実で完全な知に到るというその外見、つまり、始めと終わりが共に確実性をもつというその外見、にある。しかし実際には、それは幻想である(RP :16-17=13)。

すべての世界の中で政治の世界は、合理主義的処理にもっとも馴染まない世界かも知れない----政治、そこには常に伝統的なもの、状況的なもの、移りゆくものが血管のように走っているのだから(RP:7=4)。

渋谷浩によるまとめ。
合理主義者の設計図は、雑然とした格言の中から理性に適合するもの若干をピックアップして論理的に連結させ編集し上げたものに他ならない。オークショットは、この設計図すなわち合理主義的行動の原理を、イデオロギーと称し、さらにイデオロギーを「クリブ」と言い換える。クリブは学生社会の俗語で、一夜漬けの試験勉強用の「虎の巻」を指す。イデオロギーは近代市民社会成立に当って新興ブルジョワジーが大急ぎで政治的知恵と技術を身につけるために拵え出した政治・世界早わかりのための虎の巻である。理性が、すでに人間性の中の一部分に過ぎない。その部分が選び出した伝統の中の格言は、人の置かれた状況のまことに極く一部を把えるのみである。ところが合理主義者はイデオロギーをもって世界全体を理解し得たと信ずる。これが「合理病」の症状で、この疾患の結果は人間性の喪失である。ヒューマニティーの部分と全体を取り違え、その構造要因を切り捨てた結果、近代人は精神の枯渇という報いを得たのである(渋谷浩 1985「「法」のルールと政治――マイケル・オークショットの場合」『明治学院論叢』第377号、59-60)。
ただ、個人的な印象をいえば、オークショットの政治思想について「精神の枯渇という報い」というような近代批判の側面を強調することには若干の違和感を。

おそらく問題は、オークショットの「伝統の暗示」(intimation of tradition)理論を、渋谷が指摘したような近代批判と結びつけて考えるべきなのかどうかということに存するであろう。すなわち、それは、オークショットのわかりにくい文章で言えば、

政治という活動は、その時々の欲求からも一般的原理からも、自動的に発生するのではなく、存在している行動の伝統自体から発するものである。また政治活動が取る形とは、多くの伝統の中で暗示されたことを探求し、追求するによって、すでに存在している秩序に手を加えるということである。というのはそれ以外の形はあり得ないのだから。政治的活動を為し得る社会を構成している整序化は、それらが習慣であれ、制度であれ、あるいは法や外交的決定であれ、整合的であると同時に、不整合的でもあるものである。それらは、あるパターンをなしているが、同時にそれらは、完全には現れていないものに対する、ある共感を暗示しているものである。政治的活動とは、この共感を探求する試みである。だから、意味のある政治的推論とは、存在はしていてもまだ十分には把握されていないある共感を、説得的なやり方で呈示することであり、今こそそれを認知すべき絶好の時であることを、説得的に証明することであろう。(RP:57=143-144)
というような考え方であり、もう少し分かりやすくパラフレーズすれば、
伝統は現在の行為に一義的な指令を下すわけでもなければ、必要なときにいつでも取り出せる知恵の貯蔵庫でもない。オークショットの伝統概念はさまざまなオプションに満ちた「資源」として存在し、個々の活動にとってはいわばその背後に遡ることができない超越論的限界であると同時に、選択の多様性に向かっても開かれた本質的に解釈学的な構造を持っているのである。しかしそれゆえにこそ、政治は伝統に埋没するのではなく、まさに「暗示」としてではあれ、伝統をして語らしめ、「海図なき海」を航海しているための技法として限りなく重要な意味をもつ(中金聡 1995『オークショットの政治哲学』早稲田大学出版部、136頁)。
というようなものなのだが。

というようなことを踏まえ、最初の文章に戻って「ただ船を水平に保って浮かびつづけること」としての政治とは、どういう営みなのかを再度考えてみると、オークショットの言っていることがぐっと分かり易くなるかといえば……。

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Monday, November 08, 2004

Oakeshott vs Raphael 1965

RP (1962) をめぐって論争しているとか(Political Studies, XIII/2: 202-215, 3: 89-92, 1965)。

某修論指導で読ませたいのだが、複写を取り寄せないと。

Wells 1994 (JHI, 55/1)と Kukathas の書評(PT, 21/2, 1993)は要複写。本人参加の誌上論争(PT, 4/3, 1976)も読んでおかないと。

Crick の Oakeshott 論は邦訳があるとか。読んだはずなのに記憶にない。Minogue, Germino, Liddington は邦訳で読める。RP の読み方としては Pitokin 1973 (Dissent, 20/4, 1973, 496-525) を嫁と。

Franco 1990 は要購入か?(福井 1995 という書評あり。)

Timothy Fuller ed. 1989 はできればなしで済ませたい。

添谷 1985 によれば、保守の反教義的態度について、小川晃一「保守主義的態度」(『思想』446, 196108)が要参照。

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Wednesday, June 02, 2004

Luke O'Sullivan (ed.), Lectures in the History of Political Thought.

Lectures in the History of Political Thought, Imprint Academic, 2006/01/02 をいをい…….

What Is History?: And Other Essays に続く、Selected Writings, Vol. II らしいが。

オークショット学派も、Strauss & Cropsey eds. 1987 みたいな教科書とか出す気はないんだろうか。教育熱心な方が揃っているというのも妙に似ているし。

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