Sunday, June 26, 2005

『歴史とは何か』を読む(2)

第二章「社会と個人」においてカーは、歴史を「<歴史家という個人>による<研究対象となる個人>についての研究」と見なす立場を批判し、<歴史家という個人>と<研究対象となる個人>が共に個別具体的な歴史的文脈の中での<社会現象>であるということを論じている。(<歴史家を単独の個人と見なすことは不適切である>説については第3~6節、<歴史上の事実を単独の個人に関する事実と見なすことは不適切である>説については第7~12節)

まずは問題設定。本章で試みられるのは、前章で検討した「歴史とは<現在=歴史家>と<過去=事実>との間の尽きることを知らぬ対話である」という命題の「両側」――<現在=歴史家>と<過去=事実>――における「個人的要素と社会的要素の比重」を検討すること。

……歴史の常識的な見方からすれば、歴史とは諸個人が諸個人について書いたものであります。確かに、、この見方は、十九世紀のリベラルな歴史家たちによって受け容れられ奨励されて参りましたし、また、本質的に間違っているわけでもありません。しかし、それは単純すぎる不十分な見方のように思われますので、少し立ち入って検討する必要があります。歴史家の知識というのは、彼だけの個人的所有物ではなく、恐らくは、多くの世代に亙る人々が、多くの国々に跨る人々がその蓄積に参加してきているのです。また、歴史家がその行為を研究する〔歴史研究の対象である〕当の人々にしても、真空の中で行為した孤立した個人ではなく、過去のある社会の文脈の中で、また、それに衝き動かされながら行為していたのです。前回の講演で、歴史とは現在の歴史家と過去の事実との間の相互作用の過程である、対話である、と私は申しました。今後は、この方程式の両側における個人的要素と社会的要素との比重を研究しようと考えます。歴史家はどこまで単独の個人なのでしょうか、そして、どこまで自分の社会および時代の産物なのでしょうか。歴史上の事実は、どこまで単独の個人に関する事実で、どこまで社会的事実なのでしょうか。(47-48頁)
次に、歴史家の思考の歴史性の実例。具体的には、グロート、モムゼン、トレヴェリアン、ネーミア、マイネッケ、バターフィールドを例に、歴史家の過去への視角が如何に同時代的文脈の影響下にあるかを検証。まずはグロートとモムゼン。
さて、歴史家は一人の個人であります。それと同時に、他の多くの個人と同様、彼はまた一個の社会的現象であって、彼の属する社会の産物であると同時に、その社会の意識的あるいは無意識的なスポークスマンであって、こういう資格において、彼は歴史的過去の事実に近づいていくのです。……歴史家は歴史の一部なのです。現に歴史家が立っている行列〔歴史の進行〕中の地点が過去に対する彼の視角を決定するのです。

この公理は、歴史家の取り扱う時代が彼自身の時代から遠く距たっている場合でも同じように通用するものであります。私が古代史を研究しておりました当時、この問題についての古典は――恐らく今でもそうでしょうが――グロート〔1794-1871〕の『ギリシア史』とモムゼン〔1817-1903〕の『ローマ史』とでありました。グロートは1840年代に著作活動をした、頭の進んだ急進的な銀行家で、進歩的な新興イギリス中産階級の大望をアテナイの民主政治の理想化された姿のうちに盛り込み、そこではペリクレスがベンサム主義的改革者の役割を果たし、不覚にもアテナイが一大帝国を獲得するに至っているのでした。グロートがアテナイの奴隷制の問題を無視しているのは、彼がその一員である集団が新しいイギリスの工場労働者という階級の問題に立ち向かう気力がないことの証拠だと考えても突飛ということはありますまい。

モムゼンはドイツのリベラリストで、1848年から1849年にかけてのドイツ革命で疲れ傷ついた失意の人でありました。モムゼンは1850年代――現実政治という名称および概念が生まれた十年間――に著作活動をしておりましたが、彼は、その政治的大望の達成に敗れたドイツ国民が後に残した混乱を一掃すべき強力な人間が必要だという考えにとりつかれていたのです。したがって、モムゼンがシーザーに加えた有名な理想化も、ドイツを廃墟から救うべき強力な行動的人物へのこうした憧憬の所産なのでありますし、法律家であり政治家であるキケロ、この無能なお喋り、この狡猾因循な男も、1848年、フランクフルトのパウル教会の憲法討議の席から真っ直ぐに歩み出てきたように見えているのですから、こういう点を掴んでいないと、私たちは決してモムゼンの歴史の本当の価値が判らないのです。実際、グロートの『ギリシア史』は、今日、紀元前五世紀のアテナイの民主政治について私たちに語っているのと全く同様に、1840年代のイギリスの哲学上の急進主義者たちの思想について語っているとか、ドイツの自由主義者に対する1848年の革命の意味を理解しようとする人は、モムゼンの『ローマ史』を教科書の一冊に加えるべきであるとか、そういう風に言う人があっても、私は飛んでもない珍説とは思わないでしょう。このことは何も偉大な歴史的著作としての地位を低めることにはなりません。

ビュリが就任講演で、モムゼンの偉大さは彼の『ローマ史』にあるのではなく、彼による碑文の集成およびローマ憲法に関する業績にある、と主張して以来、これが流行になっておりますが、私には我慢がならないのです。これ〔歴史家モムゼンの業績を単なる事実の編纂に限定してしまうこと〕は歴史を編纂というレベルに引き下げてしまうものです。過去に対する歴史家のヴィジョンが現在の諸問題に対する洞察に照らされてこそ、偉大な歴史は書かれるのです。(48-50頁)

次に、ネーミアを例に、歴史から思想を追放したがる保守主義者のメンタリティを。
現代の歴史家のうちにも、こういう種類の〔歴史家の現在への問題意識が彼の過去への視角を大きく規定している〕例はまだ沢山あります。……ネーミア〔1888-1960〕は真実の保守主義者――一皮剥けば、75パーセントは自由主義であるというようなイギリスの典型的な保守主義者ではなく、この百年以上を通じてイギリス歴史家の間にその類を見なかったような保守主義者でありました。

前世紀中葉から1914年にかけて、イギリスの歴史家にしてみれば、歴史的変化ということは、より良いものへの変化としてでなければ、殆ど考えようがありませんでした。ところが、1920年代、私たちは、変化ということが将来への恐怖と結びつき始めた時期、変化がより悪いものへの変化と考えられるような時期――保守主義思想の復活の時期――へと入り込むことになったのです。アクトンのリベラリズムと同じように、ネーミアの保守主義の強さも深さも、それが大陸的背景に根ざしているところから来ていたのです。ところが、ネーミアは、彼の同時代者であるフィッシャーやトインビーとは違って、その根を19世紀のリベラリズムのうちに持っておらず、それに対する未練に苦しむことがありませんでした。第一次世界大戦および空しかった平和がリベラリズムの破産を明らかにした後は、〔19世紀の楽観主義的・自由放任主義的リベラリズムに対する〕反動は二つの形態――社会主義か保守主義か――のうちの一つとして現れるほかはなかったのです。

ネーミアは保守主義の歴史家として登場いたしました。彼は二つの分野を選んで研究を進めましたが、この二つを選んだことが重要なのです。イギリス史では、彼は、支配階級が、秩序ある、かなり静的な社会のうちで地位および権力を合理的に追求する力があった最後の時期へ遡って行きました。ネーミアは精神というものを歴史から除き去った、と誰かが非難したことがあります。どうも、これはあまり適切な言葉ではないようですが、しかし、この批評家が指摘しようとした点は判ります。ジョージ三世即位の時代の政治は、まだ思想のファナティシズム、すなわち、フランス革命とともに世界を襲い、リベラリズム勝利の世紀を導き入れた、あの進歩の熱狂的信仰というファナティシズムを免れておりました。〔その時代は〕いかなる思想も、いかなる革命も、いかなるリベラリズムもなかったので、ネーミアは、これら一切の危険からまだ安全な――いつまでも安全というわけではありませんが――時代の輝かしい肖像を私たちに与えるという道を選んだのです。

しかし、ネーミアが第二のテーマを選んだことも同様に重要でありました。ネーミアは、イギリス、フランス、アメリカ、ロシアの、近代の創造的な革命を無視し――どれについても彼はこれという内容のあることを書きませんでした――そして、1848年のヨーロッパの革命、すなわち、挫折した革命、高揚するリベラリズムの願望の全ヨーロッパ的な後退、武力に直面した場合の思想の、兵士と向き合った場合の民主主義者の空しさという事実、それの透徹した研究を私たちに与えるという道を選んだのであります。ネーミアはこの恥多き挫折を「インテリの革命」と名付け、政治という真剣な仕事の中へ思想が入り込むのは無益であり、危険であるという教訓を繰り返し説いたのであります。私の結論は単に憶測によるものではありません。確かにネーミアは歴史哲学について何一つ系統的に述べてはおりませんが、しかし、二、三年前に公にされた論文の中で、彼はいつもの明晰痛烈な調子で自説を述べているからです。「したがって、政治的な学説や教理で自分の精神の自由な活動を妨げることが少なければ少ないほど、彼の思考には都合がよいのである。」そして、歴史から精神を除き去ったという非難にみずから触れた後、これを否定せぬままに続けています。

政治哲学者の中には、現在のイギリスでは一般の政治問題の議論が「たるんでいる」とか、存在しないとか、具体的問題のために実際的解決が求められるばかりで、両党ともプログラムや理想を忘れているとか嘆く人がいる。しかし、私の見るところでは、こういう〔原理的な問題を放棄して具体的問題の実際的解決ばかりに汲々としている〕態度はわれわれが国民として成熟してきたことを示しているように思う。私としては、この態度が政治哲学の働きに煩わされることなしに永く続いていくことを願うのみである。
今は、私はこの〔政治に哲学を持ち込むことを危険視する保守的な〕見解と争うつもりはありません。……ここでの私の目的は、二つの重要な真理、すなわち、第一に、歴史家が研究に向かって行く場合の立場を最初に掴んでおかないと、歴史家の研究を十分に理解することも評価することもできないということ、第二に、この立場はそれみずからが社会的歴史的背景に根ざしているということ、これを明らかにすることだけであります。(51-54頁)
思想や哲学が理解できない嫌いな香具師がクソ実証主義手堅い実証研究に専心したがるという好例か。

煩瑣になるが、マイネッケの例も。

……激動期の歴史家の中には、その著作のうちに一つの社会的秩序でなく、さまざまの秩序の景気を反映している人があるものです。私の知っている限りで最も良い例はドイツの大歴史家マイネッケ〔1862-1954〕であります。その生涯も活動も著しく長期に亙っており、自国の運命に於ける幾多の革命的および破局的な変化を含んでおりました。実は、違ったマイネッケが三人いて、その一人一人が異なった歴史的時代のスポークスマンであり、それぞれ彼の三大著作の一つを通じて語っているというわけなのです。

1907年出版の『世界市民主義と民族国家』のマイネッケは、ビスマルクのドイツ帝国をドイツの民族的理想の実現であると確信し、そして、――マッチーニ以後の19世紀の多くの思想家たちと同じように――民族主義を普遍主義の最高形態と見ております。要するに、これはビスマルク時代に続くグロテスクなヴィルヘルム時代の産物であります。

1925年出版の『国家理性の観念』のマイネッケになりますと、ヴァイマル共和国の分裂し当惑した精神で語っています。つまり、政治の世界は国家理性と、政治にとって外的な倫理との間の決着のつかぬ闘争の舞台になってしまったが、この倫理も結局は国家というものの生命や安全を無視することはできないというわけです。

最後に、彼がナチの支配のためにアカデミックな栄誉を失っていた1936年に出版された『歴史主義の成立』のマイネッケは、存在するものは何でも正しいと認める歴史主義を斥けつつ、歴史的な相対的なものと超合理的な絶対的なものとの間を不安な気持ちで動揺しつつ、絶望の声を上げているのです。

そして、到頭、高齢のマイネッケは、自国が1918年の敗北に輪をかけて壊滅的な軍事的敗北に倒れるのを見るに及んで、1946年出版の『ドイツの悲劇』においては、歴史は盲目で仮借ない偶然に翻弄されているという信仰に力なく落ち込んでいってしまったのでした。心理学者や伝記作者なら、個人としてのマイネッケの発展に興味を持つでしょう。しかし、歴史家にとって興味があるのは、現在といっても、そこには三つの――いや、四つの時期が対照も鮮やかに相次いで存在しており、それをマイネッケが歴史的過去のうちに反映させているその様子なのです。

……私の現在の目的は、歴史家の研究が、そこで研究活動を行なっている社会をいかに正確に映し出しているか、それを示そうというに尽きております。流れの中にあるのは事件だけではありません。歴史家自身も流れの中にいるのです。歴史的著作を手に取る場合、扉に著者名を探すだけでは足りません。刊行乃至執筆の年代を探すことも必要で、その方が時には有益なものであります。二度と同じ川に足を入れることは出来ない、という哲学者の言葉が正しいのならば、同じ歴史家が二冊の本を書くことは出来ない、というのも恐らく同様に真実でしょうし、またその理由も同じでしょう。(55-59頁)

次に、<過去の事実>の社会性(非個人性)の検討。歴史を動かした偉人は<偉大な個人>なのか、それとも<同時代の文脈の影響下にあった社会現象>なのかという問い。もちろん、カーは後者の立場。
……〔歴史における偉人の個人的役割を強調したがる〕歴史における偉人学説――その特色ある一例としての善女王エリザベス学派――も近年は流行遅れになってしまいましたが、それでも、また時にはそのぶざまな頭を擡げております。

……歴史における偉人の役割は何でしょうか。偉人は一個の個人ではありますけれども、卓越した個人であるため、同時に、また卓越した重要性をもつ社会現象なのであります。……私が攻撃を加えたいと思うのは、偉人を歴史の外に置いて、突如、偉人がどこからともなく現れ、その偉大さの力で自分を歴史に押しつけるというような見方、「ビクーリ箱よろしく、偉人が暗闇から奇蹟の如く立ち現れて、歴史の真実の連続性を中断してしまう」というような見方にほかなりません。今日でも、私は、次に掲げるヘーゲルの古典的な叙述は完璧なものだと考えております。

ある時代の偉人というのは、彼の時代の意志を表現し、時代の意志をその時代に向かって告げ、これを実行することの出来る人間である。彼の行為は彼の時代の精髄であり本質である。彼はその時代の実現するものである。
リーヴィス博士は、偉大な作家が重要なのは「彼が人間の自覚を進めるという点においてである」と言っていますが、これも同じことです。いつも偉人というものは、現存諸勢力の代表者であるか、さもなければ、現存の権威に挑戦して新たな創造を助けようとしている諸勢力の代表者であります。

しかし、ナポレオンやビスマルクのように、既存の諸勢力に跨って偉大になった人々よりも、クロムウェルやレーニンのように、自分たちを偉大にした〔反体制的な〕勢力そのものを作り上げるのに貢献した偉人の方に、一層高い創造性が認められるのではないでしょうか。また、自分の時代よりも進みすぎていたために、ようやく後代に至ってその偉大さが知られるようになった偉人たちのことも忘れてはなりません。私が大切だと考えますのは、偉人とは、歴史的過程の産物であると同時に生産者であるところの、また、世界の姿と人間の思想とを変える社会的諸力の代表者であると同時に創造者であるところの卓越した個人であると認めることであります。(75-77頁)

結論としては、歴史の「二重機能」(<現在の光で過去を眺めること>と<過去の光で現在を眺めること>)。
……歴史というのは、この言葉の二つの意味で――すなわち、歴史家が行う研究という意味でも、歴史家が研究する過去の事実という意味でも――一つの社会過程でありまして、個人は社会的存在としてこの過程に入り込んでいるのであります。社会と個人との架空の対立は、私たちの思考を混乱させるための陥穽に過ぎません。歴史家とその事実との間の相互作用という相互的過程――これは前に現在と過去との対話と呼んだものですが――は抽象的な孤立した個人と個人との間の対話ではなく、今日の社会と昨日の社会との間の対話なのです。……過去は、現在の光に照らして初めて私たちに理解できるものでありますし、過去の光に照らして初めて私たちは現在をよく理解することができるものであります。人間に過去の社会を理解させ、現在の社会に対する人間の支配力を増大させるのは、こうした歴史の二重機能〔<現在の光で過去を眺めること>と<過去の光で現在を眺めること>〕にほかなりません。(77-78頁)
なるほどと思いつつ、しかし現在有力な見方は<現在の光で過去を眺めること>と<現在の光で現在を眺めること>なのだろうなと。

「過去に学ぶことなんてあるんでしょうか?」「過去といっても、研究するに値するのは、<現在でも使える過去>だけですよね?」という暴力的な問いかけに、カーならばどう答えたのだろうかと。

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Saturday, June 25, 2005

『歴史とは何か』を読む(1)

#カー『歴史とは何か』(原著1961、amazon / bk1)についてのメモ#

第一章「歴史家と事実」では、まず歴史家の営みを事実の編纂のみに限定しようとする事実偏重の客観主義的立場と、歴史家の解釈を偏重する主観主義的立場が対比され、両者が批判された後、カーの歴史観(「歴史とは<現在=歴史家>と<過去=事実>との間の尽きることを知らぬ対話である」)がのべられている。結論は平凡だが、客観主義批判と主観主義批判の事例が非常に興味深い。

まずは対比。

……アクトン〔1834-1902〕とサー・ジョージ・クラーク〔1890-1979〕とのこうした食い違いは、これら二つの発言の間に横たわる期間における私たちの全体的な社会観の変遷を反映しているものであります。〔事実主義者〕アクトンの方が、ヴィクトリア時代後期の積極的な信念と冷静な自信とを正直に語っているのに対して、〔解釈主義者〕サー・ジョージ・クラークの方は、ビート・ジェネレーションの当惑と取り乱した懐疑主義とを伝えているのです。「歴史とは何か」という問題に答えようとする時、私たちの答は、意識的にせよ、無意識的にせよ、私たちの時代的な位置を反映し、また、この答は、私たちが自分の生活している社会をどう見るかという更に広範な問題に対する私たちの答の一部分を形作っているのです。(3頁)
次に第一の見方、事実偏重的客観主義史観。この史観の持ち主は、歴史家が叙述の中で独自性を発揮することを嫌う。誰が書いたか分からない叙述こそが歴史の文体として最もふさわしいということのようだ。
19世紀は、大変な事実尊重の時代でありました。……1830年代、ランケは道徳主義的歴史に対して正当な講義を試み、歴史家の仕事は「ただ本当の事実を示すだけである」と申しましたが、この必ずしも深くないアフォリズムはめざましい成功を収めたものであります。約一世紀の間、ドイツ、イギリス、いや、フランスの歴史家たちさえ、「本当の事実」という魔法の言葉を呪文のように唱えながら進軍して参りました。そして、この呪文も、大部分の呪文と同じように、自分で考えるという面倒な義務から歴史家たちを免かれさせるように作られたものでありました。

科学としての歴史ということを熱心に主張する実証主義者たちは、その強大な影響力にものを言わせて、この事実崇拝を助長しました。イギリスでは、こういう歴史観は、ロックからバートランド・ラッセルに至るイギリス哲学の支配的潮流である経験論の伝統と完全に調和しました。経験論の知識論では主観と客観との完全な分離を前提いたします。感覚的印象と同様に、事実は外部から観察者にぶつかってくるもので、観察者の意識から独立なものだというのです。これを〔意識が〕受け取る過程はパッシヴなもので、つまり所与を受け取った後に、観察者がこれに働きかけるというのです。……これは、常識的歴史観と呼ぶべきものです。歴史は、確かめられた事実の集成から成るということになります。魚が魚屋の店頭で手に入るように、歴史家にとっては、事実は、文書や碑文などのうちで手に入れることができるわけです。歴史家は事実を集め、これを家に持って帰り、これを調理して、自分の好きなスタイルで食卓に出すのです。アクトンは料理については趣味が渋かったので、事実にアッサリした味をつけようとしました。第一次『ケンブリッジ近代史』の執筆者たちに指示を与えた手紙の中で、彼は次のような注文を述べたことがあります。「われわれのウォータールー戦史は、フランス人やイギリス人、ドイツ人やオランダ人を同様に満足させるようなものでなければならぬこと、執筆者リストを調べない限り、オックスフォードの監督がどこで書き終わったか、書き継いだのはフェアベンかガスクェットか、リーバーマンかハリソンかが誰にも判らないものであること。」アクトンの態度には批判的であるサー・ジョージ・クラークすら、歴史における「事実という堅い芯」と「それを包む疑わしい解釈という果肉」とを自分で対照させているのですが、きっと、果物は果肉の部分の方が堅い芯よりも有り難いものだということを忘れているのでしょう。先ず、汝の事実を確実に手に入れよ、次に、無二無三、解釈という流れ動く砂漠に突進せよ――これが歴史における経験的な常識的な学派の最後の言葉であります。(4-6頁)

次に主観説の整理。コリングウッド史観のおさらいと批判。
過去50年間、「歴史とは何か」という問題については多くの真剣な研究が行われてまいりました。1880年代および1890年代、歴史における事実の優位性と自律性という学説に対して行われた最初の挑戦は、ドイツから、すなわち、19世紀のリベラリズムの安穏な支配を覆すために奮闘せねばならなかった国から始まりました。

この挑戦を行なった哲学者たちは今では殆ど名前だけしか知られておらず、この人々のうち、ディルタイだけが、最近のイギリスでようやく認められるようになったのです。20世紀に至るまでのイギリスでは繁栄と自信とがなお大きかったため、事実崇拝に一撃を加えた異教徒はあまり注意を惹くに至りませんでした。ところが、20世紀の初め、炬火はイタリアへ移り、クローチェが一つの歴史哲学――これは明らかにドイツの先生たちに負うところが大きいのですが――を提議し始めました。すべての歴史は「現代史」である、とクローチェは宣言いたしました。その意味するところは、もともと、歴史というのは現在の眼を通して、現在の問題に照らして過去を見るところに成り立つものであり、歴史家の主たる仕事は記録することではなく、評価することである、歴史家が評価しないとしたら、どうして彼は何が記録に値するかを知りうるのか、というのです。

1910年、アメリカの歴史家カール・ベッカーは、わざと刺激的な言葉を用いて次のように申しました。「歴史上の事実というものは、歴史家がこれを創造するまでは、どの歴史家にとっても存在するものではない。」こうした挑戦は当座は殆ど顧みられませんでした。クローチェの主張がフランスやイギリスで大流行になり始めましたのは、ようやく1920年以後のことであります。思うに、これは、クローチェがドイツの先輩たちよりもより繊細な思想家、優れた文章家であったためではなくて、第一次世界大戦後の諸事実そのものが1914年以前のように私たちに温かく微笑みかけてくれないように見えたためで、それゆえに、私たちは、事実というものの権威を減らそうとする哲学に以前より親しみを感じることになったのでありましょう。

クローチェは、ずっとオックスフォードの哲学者であり歴史家であるコリングウッドに大きな影響を与えました。コリングウッドは、歴史哲学に重大な貢献をいたしました20世紀唯一のイギリスの思想家であります。彼は、みずから計画した体系的著作を書き上げるほど長命ではありませんでした。しかし、彼の死後、このテーマを論じた既発表および未発表の原稿は、1945年出版の『歴史の観念』と題する一冊の書物に集められております。

コリングウッドの見解は次のように要約することができます。歴史哲学は「過去そのもの」を取り扱うものでもなければ、「過去そのものに関する歴史家の思想」を取り扱うものでもなく、「相互関係における両者」を取り扱うものである。(この言葉は、現に行なわれている「歴史」という言葉の二つの意味――歴史家の行なう研究と、歴史家が研究する過去の幾つかの出来事――を反映しているものです。)「ある歴史家が研究する過去は死んだ過去ではなくて、何らかの意味でなお現在に生きているところの過去である。」しかし、過去は、歴史家がその背後に横たわる思想を理解することが出来るまでは、歴史家にとっては死んだもの、つまり意味のないものです。ですから、「すべての歴史は思想の歴史である」ということになり、「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」ということになるのです。歴史家の心のうちにおける過去の再構成は経験的な証拠を頼りとして行なわれます。しかし、この再構成自体は経験的過程ではありませんし、事実の単なる列挙で済むものでもありません。むしろ、再構成の過程が事実の選択と解釈とを支配するのです。すなわち、まさにこれこそが事実を歴史的事実たらしめるものなのです。

この点でコリングウッドに近いオークショット教授が申しますには、「歴史とは歴史家の経験である。これは歴史家だけが『作った』もので、歴史を書くのは、歴史を作る唯一の方法である。(24-27頁)

この鋭い〔事実崇拝史観〕批判は、重要な問題が少し残りはいたしますけれども、いくつかの忘れられた真理を明らかにいたしております。

第一に、歴史上の事実は純粋な形式で存在するものでなく、また、存在し得ないものでありますから、決して「純粋」に私たちへ現れてくるものではないということ、つまり、いつも記録者の心を通して屈折して来るものだということです。したがって、私たちが歴史の書物を読みます場合、私たちの最初の関心事は、この書物が含んでいる事実ではなく、この書物を書いた歴史家であるべきであります。……(27頁)

コリングウッドの主張の第二点は、もっと判り易いことで、歴史家は、自分が研究している人々の心を、この人々の行為の背後にある思想を想像的に理解する必要がある、ということであります。……この十年間に英語使用諸国が生んだソヴィエト連邦関係の文献の大部分、また、ソヴィエト連邦が生んだ英語使用諸国関係の文献の大部分が無価値なのは、相手方の心の動きを想像的に理解するということのイロハにも達し得ず、その結果、相手方の言葉や行動がいつでも悪意に満ちた、非常識な、偽善的なものに見えるようになっているからです。歴史家が、自分の書いている人々の心と何らかの触れあいができなかったら、歴史は書くことができないものであります。(30-31頁)
第三の点は、現在の眼を通してでなければ、私たちは過去を眺めることもできず、過去の理解に成功することもできない、ということであります。歴史家は彼自身の時代の人間なのであって、人間存在というものの条件によってその時代に縛り付けられているのです。(31頁――ピーター・ウィンチとの類似?)
コリングウッド史観批判。
さて、以上、コリングウッド史観とでもいうべきものの若干の見方を述べて参りましたが、今度は、そこに見られる若干の危険を考察する番であります。歴史記述における歴史家の役割の強調ということも、これを論理的帰結まで推し進めますと、そもそも、すべての客観的歴史を排除することになり、歴史は歴史家が作るものだということになってしまいます。たしかに、一時、コリングウッドは、ある未発表のノート――彼の著作の編纂者が引用しているので知ったのですが――でこういう帰結に到達したことがあるようです。「聖アウグスティヌスは初代キリスト教徒という見地から歴史を眺め、ティユモンは17世紀のフランスという見地から、ギボンは18世紀のイギリス人という見地から、モムゼンは19世紀のドイツ人という見地から歴史を眺めた。どれが正しい見地かということが問題なのではない。どの見地も、それを採用した当人にとっては唯一可能の見地であった。」

結局、これでは完全な懐疑主義〔つまりは価値相対主義――引用者〕に陥ることになり、フルードの言葉の通り、歴史は「子供のイロハ並べと同じで、何でも好きな言葉を綴ればよい」ということになってしまうでしょう。コリングウッドは〔事実のみを尊重し一切の解釈を排そうとする〕「糊と鋏の歴史」に反対し、歴史は単なる事実の編纂であるという歴史観に反対する余り、今度は、歴史を人間の脳髄の編み出したものと考える危ない淵に近づき、「客観的」な歴史的真理は存在しないという結論――これは、私が前に引用した文章の中でサー・ジョージ・クラークが暗示しているのですが――へ逆戻りしていくのです。歴史には〔事実のみがあるのであって〕意味はないという理論の代わりに、無限の意味があるという理論が与えられ、どの意味が正しいということもなく、結局はどれも同じようなものだということになってしまいました。しかし、どう考えても、第二の理論〔主観主義〕も第一の理論〔客観主義〕と同様に支持し難いものです。見る角度が違うと山の形が違って見えるからといって、もともと、山は客観的に形のないものであるとか、無限の形があるものであるとかいうことにはなりません。歴史上の事実を決定する際に必然的に解釈が働くからといって、また、現存のどの解釈も完全に客観的ではないからといって、どの解釈にも甲乙がないとか、歴史上の事実はそもそも客観的解釈の手に負えるものではないとかいうことにはなりません。(33-35頁)

結論。
このように、歴史家と歴史上の事実との関係を吟味して参りますと、私たちは二つの難所の間を危うく航行するという全く不安定な状態にあることが判ります。すなわち、歴史を事実の客観的編纂と考え、解釈に対する事実の無条件的優越性を説く支持し難い理論の難所〔19世紀的な事実崇拝=客観主義〕と、歴史とは、歴史上の事実を明らかにし、これを解釈の過程を通して征服する歴史家の心の主観的産物であると考える、これまた支持し難い理論の難所〔歴史家の解釈の主観性を強調する懐疑主義=主観主義〕との間、つまり、歴史の重心は過去にあるという見方と、歴史の重心は現在にあるという見方との間であります。しかし、私たちの状況は、外見ほど不安定なものでもありません。……歴史家と事実との関係は平等な関係、ギヴ・アンド・テークの関係であります。実際の歴史家が考えたり書いたりする時の自分自身の仕事ぶりを少し反省してみれば判ることですが、歴史家というのは、自分の解釈にしたがって自分の事実を作り上げ、自分の事実にしたがって自分の解釈を作り上げるという不断の過程に巻き込まれているものです。一方を他方の上に置くというのは不可能な話です。

歴史家は事実の仮の選択と仮の解釈――この解釈に基づいて、この歴史家にしろ、他の歴史家にしろ、選択を行なっているわけですが――で出発するものであります。仕事が進むにしたがって、解釈の方も、事実の選択や整理の方も、両者の相互作用を通じて微妙な半ば無意識的な変化を蒙るようになります。そして、歴史家は現在の一部であり、事実は過去に属しているのですから、この相互作用はまた現在と過去との相互関係を含んでおります。歴史家と歴史上の事実とはお互いに必要なものであります。事実を持たぬ歴史家は根もありませんし、実も結びません。歴史家のいない事実は、生命もなく、意味もありません。そこで「歴史とは何か」に対する私の最初のお答えを申し上げることにいたしましょう。歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。(38-40頁)

何というか、カーがどういう文脈で、どういう論者を意識しつつ、講義を行なったかが、やっと少しはわかるようになったのがちょっと嬉しい。つまり、彼もまたある種の「マジノ線メンタリティ」やヴィト系保守主義と闘っていたのだな。

これでテイラー、マッキンタイアとカーが繋がったなどと頷く漏れはやはり電波系か?

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