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Friday, February 14, 2014

映画『ハンナ・アーレント』を観てきました。

「われわれは思考する。われわれは考える存在だからだ」。――マルティン・ハイデガー

「ソクラテスやプラトン以来、わたしたちは「思考」を〈自分自身との静かな対話〉だと考えます。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。私は実際、この問題を哲学的に考えました。「思考の嵐」がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。わたしが望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。」――ハンナ・アーレント

「期待してたんだ、君に分別が残っていることをね。だが君は変わっていない。ハンナ、君は傲慢なひとだ。ユダヤのことを何もわかってない。だから裁判も哲学論文にしてしまう。……われわれを見下す傲慢なドイツ人と同じだ。きみは、われわれのことを大虐殺の共犯者と呼ぶのか? ドイツ人は君を裏切ったんだぞ。君も殺されてたかもしれない。移送の担当は君の親友アイヒマンだ。キャンプから逃亡してなかったら、残った女性と同じ運命に……。」――ハンス・ヨナス

「わたしは本書の副題について、それこそ本物の論争が起こってもよかったと思う。わたしが悪の陳腐さについて語るのはもっぱら厳密な事実の面において、裁判中誰もが目を背けることのできなかったある不思議な事実に触れているときである。アイヒマンはイヤーゴーでもマクベスでもなかった。しかも〈悪人になってみせよう〉というリチャード三世の決心ほど彼に無縁なものはなかったろう。自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何の動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。もちろん、彼は自分がその後釜になるために上役を暗殺することなどは決してしなかったろう。俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。まさにこの想像力の欠如のために、彼は数ヶ月にわたって警察で尋問にあたるドイツ系ユダヤ人と向き合って座り、自分の心の丈を打ち明け、自分がSS中佐の階級までしか昇進しなかった理由や出世しなかったのは自分のせいではないということをくりかえしくりかえし説明することができたのである。大体において彼は何が問題なのかをよく心得ており、法廷での最終陳述において、「〔ナツィ〕政府の命じた価値転換」について語っている。彼は愚かではなかった。完全な無思考性(sheer thoughtlessness)――これは愚かさとは決して同じではない――それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。死に直面した人間が、しかも絞首台の下で、これまでいつも葬式の際に聞いてきた言葉のほか何も考えられず、しかもその〈高貴な言葉〉に心を奪われて自分の死という現実をすっかり忘れてしまうなどというようなことは、なんとしてもそうざらにあることではない。このような現実離反と無思考性は、人間のうちにおそらくは潜んでいる悪の本能のすべてを挙げてかかったよりも猛威を逞しくすることがあるということ――これが事実イェルサレムにおいて学び得た教訓であった。」(『イェルサレムのアイヒマン』邦訳221-222頁)

「これからわたしがやろうとしているのは、わたしたちのもっとも新しい経験ともっとも現代的な不安を背景にして、人間の条件を再検討することである。これは明らかに思考が引き受ける仕事である。ところが無思考性――思慮の足りない不注意、絶望的な混乱、陳腐で空虚になった「複数の真理」の自己満足的な繰り返し――こそ、わたしたちの時代の明白な特徴のひとつであるように思われる。そこでわたしが企てているのは大変単純なことである。すなわち、それはわたしたちが行なっていることを考えること以上のものではない。」(『人間の条件』邦訳15-16頁)


先週末からのばたばたする流れの中でなんとか『ハンナ・アーレント』を観てきた。日本語版字幕がパンフに収録されていて便利。解説で奥平康弘さんが「ハイデガー、出てくる必要あったの?」(大意)みたいなこと書いてらっしゃるのだけど、わりと重要な場面だったんじゃないのかなと。

全体としては、アーレントよく頑張ったねというよりも、アーレントとヨナスの決別の物語という印象を。いかにも怪しげなハイデガーが繰り返し口にした「思考」という言葉を、アーレントもまた教壇で呪文のように繰り返す。それでヨナスは「結局彼女もあっち側のひとなのだ」と確信。

「ナチスのユダヤ人虐殺に、一部のユダヤ人指導者が荷担したという事実……。ハンナ、君は彼らがアイヒマンと同じく「思考」を放棄した「凡庸」な悪人だったというのかね?それを放棄した同胞を君はそんなに責めるのか?「思考」ってそんなにいいものなのかね?」

ヨナスが最後にハンナにぶつけた言葉は要するにそういうことなんだろうと思う。「俺はどうしてこんな言葉を親友にぶつけなきゃならないんだ」というヨナスの表情に、教壇でのアーレントの「思考」講義をひっくりかえすぐらいの重みを感じてしまった俺ガイル。

「アーレントばんざい!思考ばんざい!」という映画ではなかった。そして、そこがなんともいえない魅力であった。

細かいことをいえばハイデガーとアレントが共に口にする「思考は知識をもたらさない」は、ここでいう「思考」が、知識(エピステーメー)を求める形而上学や哲学とは根本的に違うということなんだろうと思う。

地方のミニシアターだったせいか、観客は少なく、そのほとんどはご高齢の方であった。しかしまあ、劇場で観れてよかった。ハンス・ヨナスのことをもっと知りたいと思った。

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