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Monday, January 28, 2013

『政治的ロマン主義』

サルベージもこれで最後。といっても、こちらにまとめたノートをもとに書いたので、おさらいという感じの雑文。

1997 みすず書房 カール シュミット, Carl Schmitt, 大久保 和郎

何にも縛られることなく、全てを自分自身で決断できる主体。シュミットが政治的ロマン主義の核心に見いだしたものは、この絶対的に自由なる「私的な司祭」であった。だがその自由は、社会が一切の紐帯を失って、ばらばらに砕け散った廃墟においてひとびとがたどり着かざるをえなかった、哀しき〈自由〉であったとシュミットはいう。

「個人主義的に解体された社会においてのみ、〔ロマン主義者という〕美的生産の主体は精神的中心を自分自身のうちに置くことができる。個人を精神的なもののなかに隔離し、自分自身しか頼るものがないようにさせ、普通ならば一つの社会秩序のなかでヒエラルヒーに応じてさまざまの機能に分けられていた重荷を個人の肩にすべて担わせてしまう市民的な世界においてのみそれは可能なのだ。この社会においては私的な個人が自分自身の司祭になればいいのである。いや、それだけではなく、宗教的なものの持つ枢要な意味と帰結によって、司祭である以上また自分自身の詩人、自分自身の哲学者、自分自身の王、自分の人格の聖堂を建てる建築家であることもできるのだ。私的な司祭ということのなかにロマン主義とロマン主義的諸現象の究極の根底がある」。

夢想の世界にひたるロマン主義者の姿は、一見、実に安易なものに見えるかもしれない。しかし、シュミットによれば、その背景に隠れているのは、ほとんど救いようのない〈絶望〉にほかならない。

「このような観点のもとに事態を観察するならば、常に善良な牧歌詩人のみを見ているわけには行かない。ロマン主義がこころよい月夜のなかで神と世界に抒情的に陶酔していようと、世界苦と世紀の痼疾として悲嘆の声を上げ、ペシミスティックに我と我が身を引き裂き、あるいはまた熱狂的に本能と生の深淵に落ち込もうと、ロマン主義運動の背後にある絶望をも見なければならない。引歪んだ顔で多彩なロマン主義のヴェールの向こうからこちらをみつめている三人の人間、バイロン、ボードレール、ニーチェを人は見なければならない。私的司祭制の司祭長であると同時に犠牲でもあったこの三人を」。

「政治的ロマン主義」の是非など、ほとんどどうでもいい話であるが、この本は、あらゆる〈理由〉が崩壊した後に生きる者が、自らの置かれた状況を理解する上で、まちがいなく必読の書であると思う。

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『30年代の危機と哲学』

これも某所のやつをサルベージ。

1999 平凡社 E. フッサール, M. ホルクハイマー, M. ハイデッガー, Edmund Husserl, Max Horkheimer, Martin Heidegger, 清水 多吉, 手川 誠士郎

30年代のドイツにおける思想史的に極めて重要な文章の翻訳を集め、解説を付したもの。ハンディでありながら、その毒は相当強い。

まず一方には、1935年5月のフッサールの講演「ヨーロッパ的人間性の危機と哲学」がある。フッサールは近代においてヨーロッパが陥った危機を、ヨーロッパ的な理性が、その本来の道を踏み外し、「外面的」な「自然主義」と「客観主義」へと堕落したことにあると論じ、そこから発生した非本来的な「合理主義」と非合理主義の対立を超えて、本来の――古き善き――合理主義に回帰することこそが、「危機」を克服する唯一の方途であることを高らかにうたいあげる。

「ヨーロッパ的人間存在の危機には、二つの出口があるだけです。つまり、本来の合理的生の意味に背いたヨーロッパの没落、精神に敵対する野蛮さへの転落か、それとも、自然主義を終局的に乗り越えんとする理性のヒロイズムを通した、哲学の精神によるヨーロッパの再生か。……もしわれわれが、「善きヨーロッパ人」として」、無限に続く闘いにも挫けぬ勇気を持ち、諸々の危機のなかでも最も重大なこの危機に立ち向かうならば、人間を絶滅させる不信という炎のなかから、西欧の人間の氏名への絶望というくすぶり続ける火のなかから、……新しい生の内面性と精神性とをもったフェニックスが、遠大な人類の未来の保証として、立ち現れてくるでしょう」(94-95頁)。

どれほどひとびとが合理主義に愛想を尽かし、非合理な野蛮さに魅せられようとも、「理性のヒロイズム」はわれわれを古き善き合理主義へと引き戻し、ヨーロッパは甦るであろう。「何故なら、精神のみが不滅なのですから」とフッサールはいう。

だが、そのようなフッサールの絶叫を踏みつぶすかのごとく、ハイデッガー総長は1933年5月の講演「ドイツ的大学の自己主張」において、アイスキュロスの言葉「技術というのは、必然のさだめに比すれば、はるかに力が弱いものだ」を次のようにパラフレーズする。

「〈知はしかし必然よりはるかに無力である。〉そのいわんとするところは、――事物についてのいずれの知も、まずは命運の強大さにゆだねられているものであって、この強大さのまえでは言葉を失ってしまうということである」(106頁)。

敢えて「理性のヒロイズム」に賭けようとするフッサールに対し、ハイデッガーは強大な「必然のさだめ」の側に身を委ねる。この両者の立ち位置をどう解すればいいのか――本書を読む者は、この厄介な問いを媒介として、「危機」論争へと召還され、当事者の一人として内省を強いられることとなろう。

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三原順『はみだしっ子』白水社文庫版についての覚書

某所をそろそろ引き上げようと思うので、懐かしいものをサルベージ。白水社文庫版『はみだしっ子』の各巻についてのレビュー。一応、自分なりのコメンタリーのつもりで書いたもの。

ネタバレ連発ですので、ご注意。

○第1巻

後に三原順本人が「オクトパス・ガーデン」という総集編を描いているものの、読みかえしてみると、むしろ作品全体のエッセンスが含まれているのは、第一話「われらはみだしっ子」であるように思う。

どういえばいいのかわからないのだけど、この作品は基本的に収拾がつかない主題を描いたものだと思う。第一話では、その収拾のつかない問いが提示される。

ほぼ二十年ぶりに最終話まで読み返してみると、その収拾のつかない堂々巡りの中で、もっとも前に進んでいるのはサーニンであったことに気づく。

四人とも、それぞれに成長していくのだけれど、どうしてサーニンはあんなに先まで進めたのだろう。口べたなのに、問題の核心に一直線で飛び込む絶妙の感覚を持っている。今いちばん気になるキャラクターである。

○第2巻

この作品全体を理解する上で最も重要なエピソード「山の上に吹く風は」が収められている。以後の物語は全てこの「山の上に吹く風は」を受けているので、慎重に読まなければならない。

「はみだしっ子」として生きるということも、決断を伴った一つの選択であり、世に対する一つの関わり方だということを思い知らされる。他人のごたごたに巻き込まれるし、他人をごたごたに巻き込んでしまう。その中で、ひとは傷つけられるだけでなく、どうしようもなく他人を傷つけてしまう。

三原順さんは、予め以後の展開の論理のようなものを考えた上で「山の上に吹く風は」を描いたのだろうか(だとすれば、三原さんの恐るべき構成の力に感服)。

それとも「山の上に吹く風は」を描いてから、それを受けるかたちで、あのような展開が事後的に生まれたのだろうか(だとすれば、三原さん以上に、物語そのものの恐るべき力と四人のキャラクターとしてのリアリティに感服)。

とにもかくにも、重要な巻であると思う。

○第3巻

第2巻後半、第3巻、第4巻前半と、しばらくの間(第11~16部)、「山の上に吹く風は」(第2巻)でばらばらになった四人が、それぞれにどのように成長し、復帰するかという話が続く。「奴らが消えた夜」はマックスを、「裏切り者」はサーニンを、「バイバイ行進曲」はグレアムを、「もうなにも…」はアンジーを、それぞれに主人公とした物語。まだ幼いマックスとサーニンについては、その自己形成が詳細に描かれ、特にサーニンについては「カッコーの鳴く森」という極めて重要な物語が語られる。

まず「奴らが消えた夜」(前半は第2巻に収録)では、マックスが引き取られていた孤児院から戻る過程が描かれる。グレアムに似たブラッド、ひどく雄弁なグレアム。この二人といろんな話をしながら全く別のキャラクターとして成長するマックスの姿を描く「奴らが消えた夜」は、この作品の中ではかなり例外的に美しいハッピーエンドとなっている。

続く「裏切者」では、「裏切者」の血を引く競走馬エルバージュとの出会いを中心にサーニンの成長と復帰が描かれ、「窓のとおく」と「バイバイ行進曲」ではグレアム父子の和解と死別が描かれる。(「窓のとおく」の父子譚は明らかに「バイバイ行進曲」への伏線であるが、どういう伏線であるかといえば、読みの分かれるところだと思う。)

もしも『はみだしっ子』が親に愛されなかった子どもたちの話であったとすれば、「バイバイ行進曲」で父と和解し、角膜移植によって右目の視力を取り戻したグレアムは、ここで旅を終えたといってもいいだろう。しかし、グレアムは既に別の問題を抱え込んでしまっており、以前にもまして、残りの三人に対して保護者として振る舞うようになる。自分こそは、三人にとっての、よき「親」でなければならないという強迫観念に突き動かされているかの如く。

そしてそのことが、グレアムと他の三人との間の決定的な壁をつくることになっているような気がするのだが、この印象を確かめるためには、第17部「クリスマスローズの咲く頃」(第4巻所収)に始まる、とてつもなく陰鬱なグレアムの物語につきあわなければならない。

第2・3巻は一つのまとまりをなしているので、この二冊を繰り返し読むという楽しみ方は十分に可能であるし、第17部以降を読まないで、第2・3巻だけを――番外編「線路の夜」で終わる前向きな――物語として読むことで得られるものも少なくないと思う。

とはいえ、やはり読者は読めば読むほどこの四人の話をもっとたくさん読みたいと思うのではないだろうか。

しかしこの先を読むと、おそらく第6巻まで読んでしまうことになるのではないかと思う。

○第4巻

第4巻の本編は、サーニンとマーシア(クークー)の恋物語である第15部「カッコーの鳴く森」で始まる。『はみだしっ子』の中から一話だけ取り出して読みたいという人には、サーニンの "noble savage" としての面目躍如たる、この第15部を薦めたい。個人的には、是非ともアニメ化(実写化)して欲しいエピソードである。森での様々な音の中で、マーシアが言葉を取り戻し、朦朧となって濁流の中で溺れかけていたサーニンの意識を呼び戻す様を、是非とも音声で聴いてみたい。

続いて、クレーマー家への養子話をめぐるグレアムの苦悩と、アンジーの母との訣別が描かれる第16部「もう何も…」。自らの女装癖について「オレは……ママになって、オレはオレを生みなおすの!」と述懐するアンジー……。アンジーのキャラクターは続く第17部「クリスマスローズの咲く頃」でも炸裂し、第18部「ブルーカラー」以降のグレアムとジャックを中心としたクレーマー家編のメイン・ストーリーの序曲となっている。第19部以降はグレアムを中心に展開されることになるが、アンジーのキャラは第6巻所収の番外編で――ロナルドというキャラクターと共に――再び息を吹き返す。

第17部「クリスマスローズの咲く頃」では、様々な苦悩を抱えつつも、クレーマー夫妻(ジャックとパム)の下で、あたたかで幸せな日常を過ごす四人の姿が描かれる。しかし、そうした日々の暮らしの中で自分の過去を忘れ、あたたかな日常の中に埋没する自分を許すことができないグレアムは、「グッバイ・ブルーカラー」と心の中で叫び、クレーマー家での幸福な生活に背を向け、「あの雪山での事」に決着をつけることを決意する(第4巻368-369頁)。

実をいえば、評者は、いまだにここでグレアムが「ブルーカラー」という言葉で何をいいたいのかよく分からないでいる。なんじゃそれはと批判されることを覚悟していえば、日常的な幸福に埋没している現存在の非本来的なありよう、すなわちハイデッガーが「世人」と呼んだもの(『存在と時間』第27節参照)に近いのものではないかと私は理解している。あるいは「ブルーカラー」という言葉には、もっと適当な意味があるのかもしれないのだが。

ただ、日常的な幸福に埋没する自分を許さず、自分の過去に対する倫理的な責任に原理主義に拘ってしまう辺りが、グレアムの弱さでもあるように感じられる。サーニンやマックスのように、世界をありのままに受け入れることが、なぜグレアムにはできないのだろうか。(アニメ版『のだめ』のラストにあったように、ひとは、「新しい出会い」を通じて、「心を縛る記憶」から自らを解放することだってできるはずではないだろうか。)

無論、それがグレアムの魅力であるということも確かではあるのだが……。

さて、残るは700頁近くある第19部「つれて行って」。第4巻までを読んでいなければ、ほとんど何のことかわからないであろう700頁である。

○第5巻

グレアムは第18部「ブルーカラー」(第5巻所収)の最後でクレーマー家での幸せな日常と訣別する意志を固めた。いかなる状況の下でも、マックス、サーニン、アンジーの三人を苦悩のどん底から救ったエゴイズム――いかなる条件の下であろうとも、好きな人には側にいて欲しい、あるいは好きな人の側にいたいという「自己本位」の欲望――を、残念ながら、グレアムは受けいれることができない。幼児期に「人の心を持たぬ者」と罵られたトラウマで、自分には「自己本位」を求める資格などないという確信を持ってしまっているからである。(あるいは、いつかきっと「おまえは「人の心を持たぬ者」ではない」という承認を与えられるのではないかという期待ぐらいは持っているのかもしれないが……。)そして、そうした「自分には幸福になる資格がない」という強迫観念は、グレアムをして、雪山で遭難した際にギィ・サリバンの射殺に関わったという「事実」――実際にはグレアムを絞殺しようとしたギィ・サリバンを、半睡状態のマックスが射殺したという事実――に対する倫理的責任へと向かわしめる。つまり、グレアムは、ギィの義妹フェル・ブラウンに自分を殺させることで、雪山でのギィの射殺という事件に〈倫理的〉に――〈法的〉にではなく――決着をつけるという最終計画を実行に移し始めるのである。

だが、グレアムは、自ら死を選択する前に、まだ幼いマックスとサーニンの将来を脅かす幾つかの陰を取り払う必要があった。マックスは、ジャックやパムの下で、うまく養子として暮らしていけるだろうか(ただ、実はサリーという家政婦がマックスの最強の味方になっている――第5巻142頁参照)。サーニンは、エルバージュの件を乗り越えられるだろうか、また、マーシア(クークー)の死を知ったとき、それをうまく受けいれられるだろうか……。マックスの将来への心配、サーニンの今後への不安。グレアムの最終計画の遂行を、この二つの懸案事項が攪乱するかたちで、最終楽章たる「つれて行って」の700頁は進行する。

第5巻を構成しているのは、クレーマー家の一員として着実に自己形成するマックスが、不良少年リッチーとのトラブルに巻き込まれ、グレアムがリッチーに腹部をナイフで刺されてしまうという事件と、それをめぐる裁判での悪徳弁護士フランクファーターとの対決、更には裁判で劣勢におかれたグレアム陣営の起死回生の策略の三つである。(マーシアの件、エルバージュの件もそれなりに進行するが、サーニンについていえば第5巻では何も問題は解決しない。)

第5巻に限定して、見どころをあげるとすれば、グレアムとアンジーとのすれ違いと、もう一つ、マックスの保護者としての、グレアムとジャックの違いということになるだろうか。特に後者は非常に興味深く、例えば、トラブルを抱えたマックスに対し、グレアムがこっそりと調査した上で自らトラブルシューターとして問題解決にあたろうとするのに対し、ジャックは、マックスを、そのようなトラブルに自ら対応できるような大人に成長させようと教育に努める(グレアムのような接し方では、残念ながら、マックスは成長しないだろう)。

結局、話の中ではグレアムの対応の方が問題解決において効力を発揮しているが、これはやはりどこかに無理を発生させずにはおかないように思う。そして果たせるかな、グレアム式トラブルシューティングは、グレアム自身の中に解消できない緊張とストレスをもたらすことになる。苦悩を一人で抱え込んだグレアムは、一方でカート・ヴォネガットを読むという憂鬱状態と、他方でバー「トリスタン」での深夜の熱狂的なピアノ演奏という躁状態の間で引き裂かれることになる。

第5巻の結末は策略の成功であり、おそらくそれは勝訴をもたらすであろう。しかし問題は何も解決していない。そのことを知るために、読者は続く第6巻を繙かなければならない。

○第6巻

第6巻は、グレアムの策略が成功し、裁判でリッチー側が敗北するところから始まる。フランクファーターとの対決を通じ、法的判断と倫理的判断(「法と道徳」と言い換えた方が学問的には厳密であるが)についての子供らしからぬ考察を展開した後、グレアムは、自らの倫理的原理主義(ギィ・サリバンが殺されたことに対する倫理的責任を全うすべく、ギィの義妹フェル・ブラウンの前で自分の命を絶つこと)への確信を強めていく。

計画の遂行。しかし肝心のフェル・ブラウンは「あなたの血なんか欲しくない!」とグレアムの提案を拒み、「自由になって」という言葉を残して去っていく。だが、フェル・ブラウンに対する〈自死による贖罪〉に自分の全てを賭けてきたグレアムは、ただ途方に暮れるしかない。

「あなたに私の目をあげる」と叔母に自殺された経験や、長年にわたって「二十歳になったら父を殺そう」という想いを支えに旅をしてきたグレアムにとって、人間の最も深い意味でのコミュニケーションは、ひょっとすると常に〈命のやりとり〉を伴うものであったのかもしれない。深いコミュニケーションにはつねに何らかの倫理的責任が伴うという考え方に拘泥する余り、グレアムは、サーニンがマーシアとの間で交わしたような、もっと別のコミュニケーションの可能性もありえたということを、結局のところ、理解できなかったのではないだろうか。(たとえばグレアムがアンジーに真剣に何かを相談できなかった一つの理由はそこにあるように私は思う。アンジーとのおしゃべりを自分の心の支えにするということを、グレアムは自分に許すことができなかったのであろう。――何と可哀想なアンジー!)

途方に暮れ、とりあえず自死の場所を探し回る途中で、グレアムはサーニンに電話でマーシアの死の真相についてヒントを与える。そこにアンジーが追いつき、グレアムに「雪山の事件」の際の拳銃を突きつける。「おまえが帰らないならオレがおまえを殺してやる!こいつで!」。

一説によれば、当初予定されていた結末は、海岸でアンジーがグレアムに発砲する場面で、その先は読者の想像に任せるというものだったらしく、しかしながらそれではあんまりだという編集部の意向で修正が行なわれたのだとか。もしもそれが真実であるとすれば、白泉社文庫版第6巻222頁以降は三原順の当初の意図に反して描かれたということになるのかもしれない。ただ、たとえそうであったとしても、修正したのもまた三原順であったということも読者は考慮しなければならない。いずれにしても、われわれの手元には、発表されたものしか残っていないのである。

その222頁以降において、グレアムはジャックに連れ戻され、無気力な日々を過ごす。そして、グレアムから自死の機会を奪ってしまったことで罪悪感に苛まれるアンジー。そしてあの結末……。これをどう読んでいいか、正直なところ、いまだによくわからない。

ただ、そこにおいてサーニンがマーシアの死の真相を知り、また世界そのものと和解する姿が描かれていることが何よりの救いである。「ボクには何かを無意味だと信じる事の方がよほど難しいよ。それが何かはわからないけど…でもきっと何か目的があるんだよ! ねェ違う? グレアム」というサーニンの言葉が、うまくいけばグレアムに届くかもしれないということを祈りながら。

中二から高三にかけて、この漫画ばかり読んでいたような記憶があって、当時はもちろん白水社の(文庫版でない)コミックスで読んだのだけど、その後、処分してしまって長らく読んでおりませんでした。五年か六年ほど前に文庫本で買い揃え、久しぶりに通読した際に、この機会に自分の読んだ諸々を文章に封じ込め、しばらく三原順作品から離れようと思って書いたのがこの雑文。

まあ、本当に誰得って感じなのですが、本人はこれを書いていろいろ落ち着いたので、なんとなくの想い出として。

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Sunday, January 20, 2013

註の欠落について(市野川・宇城編『社会的なもののために』)

参加した座談をまとめたものが近々刊行されます。公式には1月21日発売ですが、ひょっとするとそろそろ書店に並ぶかも知れません。

市野川容孝・宇城輝人編『社会的なもののために』(ナカニシヤ出版、2013年1月21日発売予定)
○公式 http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=918
○amazon http://amzn.to/109v1yF

座談における小田川の発言について、一カ所、かなり重要な脚注が欠落しています。具体的には267頁の "吉野作造における「社会の発見」" の部分。ここに次の脚注を追加しておいて頂けるとありがたいです。

飯田泰三『批判精神の航跡 近代日本精神史の一稜線』(筑摩書房、1997)第七章を参照。

言うまでもなく、飯田泰三さんの有名な御論文「吉野作造 "ナショナル・デモクラット" と「社会の発見」」小松茂夫・田中浩編『日本の国家思想』下、青木書店、1980の再録です。

日本思想史における「社会的なもの」を考える上で非常に重要な文献でもありますので、是非とも記載しようと考えていたのですが、うっかり失念しておりました。

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