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Sunday, August 19, 2012

田崎英明『無能な者たちの共同体』(未来社、2007年)

昔作った抜粋が出てきたのでご紹介。諸々のことで忙しかった時期に慌てて作ったメモらしく、頁は記されておりませんでした。御本の方はちゃんと購入して手元にあるはずなので、いずれ確認します。

田崎さんのこの御本では「有能な者たちの共同体」である「社会」に、「無能な者たちの共同体」である「政治」が対置されるわけですが(もちろんアーレントを「使って」ます)、この「無能な者たちの共同体」を大胆に掘り下げているところがこの本の魅力です。まずは「有能な者たちの……社会」についての分析。

この社会の中で、人は誰も一定のポジションを占めて生きている。日本人、男、教師、異性愛者、あるいは、移民、失業者、共産主義者、等々。私たちは、ただ単に、あるポジションを占めているばかりではない。たいていの場合、自ら執着しているのであれ、強いられてであれ、そのポジションを――一定の期間――占めつづける。個人は、ポジションへと繋縛される。それは、何がしかの命令に従属することを意味している。その命令に従いうるかぎりで、そのポジションを維持しつづけられる。それに従いえなくなったとき、人はそのポジションを失うだろう。そして、そのポジションには別の人間がやってくる。

社会はこのようにして再生産される。社会は、個人に対して、あるポジションを占めるように、自分の命令に従うようにと呼びかける。どの個人も、一定の期間しか一つのポジションを占めることはできない。どれほど長くても、その誕生と死によってその期間は区切られる。誰か特定の個人によって永遠に占有されるポジションというものはない。

社会とは、このようなポジションの集合体ないしネットワークであるといえるだろう。ポジションは疲れをしらず、それどころか誕生も死もしらない。そのポジションを占める個人の交替、生と死を超えて、ポジションは存続し続ける。このような疲れをしらぬ存在、消え去ることのない存在と自らを同一化させること、これが今日の社会に生きる私たちに課せられた定言命法ではないだろうか。

……社会的な生は、命令という言語行為によって他のポジションと結ばれたポジションの生にほかならない。あるポジションを占めるということは、他のポジションに対して命令せよという命令に従属することである。命令への命令抜きのポジションなど存在しない。たとえば、教師というポジションを占めるということは、「私を教師として受け入れよ」と他のポジション、つまり、学生やその親たちに受け入れさせることを含んでいる。もちろん、自分のポジションが含意している命令のすべてに自覚的であることはできないし、それどころか、自分が占めているポジションがいったい何なのかもふつうは、まずわからない。
どうすればそのような「社会」から逃れることができるのか。いわゆる「コモディティ化」をどうすれば拒むことができるのか。ポジションを放棄(喪失)することでしか、ひとは「社会」から逃れられない。
私たちは、この社会で一定のポジションを占めるかぎりで、つまり、何者か what, something であるかぎりで、他人と交換可能なのである。そうであるとするなら、私たちがもっとも個別的であるのは、むしろ、何者でもないときなのではないだろうか。私たちが何者でもなくなったとき、そのとき、私たちは誰とも交換できない生を生きている。

私たちがポジションを失うのはどのようなときだろうか。ポジションの命令に従えなくなるのは、それは、たとえば、疲れをしらないポジションについていけなくなるとき、疲労の極みにおいてである。疲れ果て、眠りに落ちていくとき、私たちは自分のポジションからずり落ちそうになる。定められた就寝時刻に従い、あてがわれた――ふかふかの、あるいは、こちこちの――ベッドでの眠りなら、それはむしろ、疲労する身体の否定であり、労働者としての明日の労働のためポジションが命じる命令に従っているともいえようが、作業の途中で不意に襲ってくる眠気は、個人とそのポジションのあいだの裂け目を示している。ポジションと区別される個人が初めてそのとき顔を覗かせるのである。
「コモディティ」として「社会」に組み込まれる「自我」と、それを拒む「自己」。両者を区別することで、田崎さんは「無能な者たちの共同体」の始まりについて次のように述べています。
自我ないし「私」というのは、このようなポジションを引き受ける、遂行性のエージェンシーなのだ。それに対して、自己というのは、遂行性から脱落していく存在、いや、むしろ、遂行性からの脱落そのものだというべきだろう。遂行性からの脱落そのもの、それは、享受であり、社会的な自我とは別の生、つまり、自己なのである。そして、それが疲労なのだ。

社会が自我によって構成されるのだとしたら、共同体は自己によって構成される、といっていいのではないか。そうだとすると、社会が命令の伝達によって形成されているのに対して、共同体を形成するものは何なのだろうか。自己と自己とは何をコミュニケートし、何を共有しているというのか。おそらく、共同体においては、人々が自我から自己へと落ちていくことが共有されるのである。何もできないということが、何者でもないということが、伝達されていく。

したがって、共同体の始まる場所は、社会から誰かが脱落していくところである。たとえば、個人があらゆるポジションから脱落していく、「死にゆくこと」がそうである。死にゆく者を前にして、人々には何ができるというのだろう。もちろん、それぞれのポジションで最善を尽くす人々がいる。医者、友人、家族、それぞれのポジションから、できること、しなければならないことを可能なかぎり行おうとするだろう。しかし、死にゆくことそのものに対しては、誰も、何もできない。社会は、死にゆく者に対して、さらには、すでに死んでしまった者に対してさえ、何ごとかを為すように、私たち、生き残る者に命じる。だが、私たちは、最終的には、何もできないのだ。死にゆく者から死を取り除いてやることなどできないし、また、すでに死んでしまった者に対しても、社会的に取り決められた儀式によって本当にその怒りや恨みを鎮めてやれるかどうかもわからない。

私たちは、そのとき、最終的に社会の命令に従いえなくなる。何かをせよ、といわれても、それは不可能なのだから。まさに、そこから共同体が始まる。
そして、この「共同体」をめぐる決定的に重要な一節。
社会は互いに命じ合い、貢献し合う者たちによって作られる。互いの貢献を持ちより、交換することによって社会は維持される。

いま、私たちの社会は、確実に、一定数の人間を見捨てつつある。私たちの社会は、それへの帰属をますます交換の能力へと絞り込んでいるように思われる。つまり、その成員が互いに交換しつづけられるかぎりにおいて、交換せよという命令に従いうるかぎりにおいて、社会への帰属が認められる。交換しつづけられなくなったら、死へと打ち捨てられるのである。

それにしても、死にゆくことは、どこで起こるのか。それは場所を必要とする。死にゆく者は、誰かに受け入れられ、看取られなければならない。そのための場所が必要だ。その場所は誰が取っておくのだろう。誰が死にゆく者を迎えいれるのだろう。死にゆく者が身を横たえるための地面、暖かさ、渇きを癒す水、呼吸のための空気。それらの場所を死にゆく者のために譲る者がいなければならない。死にゆく者がその中に身を沈めるためのエレメントであり、そこで、死にゆくことが自己自身を享受する。床をしつらえ、火を焚き、水を汲み、風を入れる。このように誰かによって場所が用意されることで、誰か他人に身を委ねることで、辛うじて死にゆくことはこの世に現れる。人が生まれるときと同様、死にゆくときも、無力であり、誰かが傍らにいなければならない。

おそらく、私たちの社会が死者から奪いつつあるものは、このような死にゆくこと、自己の享受としての死である。死者が死にゆくために必要なエレメントを奪ってしまったのである。ある死者は熱を奪われ、寒さの中に放置され、別の死者は風と水を奪われ、あるいは、横たわるための地面を奪われる。しかし、それでも死者たちは自らの死を死なねばならず、死にゆくことを享受するためのエレメントを奪われ、それを差し出してくれる他者を奪われたとしても、どれほど僅かであっても、それを自らのものとする。つまり、自己となる。自己であることとは、今日、抵抗の核心を構成するものなのである。

共同体とは、したがって、抵抗の伝達、ほとんどその感染というべきものである。私たちは、社会の周縁にいる者たちを見捨てた廉で告発されている。いいかえるならば、共同体に参加しなかったという罪科で。私たちは社会の一員であろうとして、つまり、有能な、遂行的な自我としての同一性に執着して、自らの疲労を、老化を、死にゆくことを否認する。自己の享受を否定するのである。
(田崎英明『無能な者たちの共同体』未来社、2007年)
どうも心理的に不安定な時期に作ったメモのようなので、もう少し余裕ができたらちゃんと細かく吟味したいと思います。

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