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Monday, November 02, 2009

社会思想史学会@神戸大学国際文化学部20091031_1101

懐かしの母校(といっても六甲台ではなくて旧教養部だけど)での学会のせいかテンション29%高め(当社比)。

@1030金。翌日朝イチの「政治思想と文学」セッションの打ち合わせ。ケイティブのIOの議論はアーレント本最終章の加筆修正版というか、アーレント本最終章で唐突に出てくるエマーソニアン擁護がケイティブ「民主的個人性」の論の核心なので、ケイティブのエマーソン解釈は、彼のアーレント解釈と対比しながら論じないとだめだよねーとか。討論者のMくんがかなり詳しいペーパーを用意してくれたので、こちらは「初歩から学ぶジョージ・ケイティブ」的な話でいいだろうという他力本願。途中からIくんも交えて「明日は早いからね-」とか言いながら宿に帰ったのは午前様。

@1031土。大丈夫か?と思いつつも、5:00に非常時モードが起動し、ノートパソコンを宿のLANに繋ぎ、ばりばりと準備を始める。「ふふふ『インナー・オーシャン』の全文が QUESTIA で読めるなんてことはお天道様でも気がつくめえ」とかぶつぶつつぶやきながら、なんとか7:30には準備を終え、目を付けていた netsquare で印刷。会場へ。

9:00から「政治思想と文学」セッション。司会・報告者・討論者で三名、フロアの参加者は五名。でもFくんが来てくれたのでちょっと感激。ぼくの報告内容をまとめるとこんな感じ。

一 「民主的個人性 democratic individuality」の理論家として有名なジョージ・ケイティブは、チャールズ・テイラーと同じく、1931年生まれで、思想家としての歩みの起点は、ポパー的な反ユートピア主義に対する違和感であった(ほぼ同世代で、似たような関心を持っていた人物を挙げるとすれば1928年生まれのジュディス・シュクラーであろう。彼女とケイティブは同時期にユートピア主義論を刊行している)。政治哲学の核心が①「道徳」と②(「目的」をめぐる)「意見の対立 disagreements」にあるというケイティブの関心は、(少なくとも当時においては)画期的なアーレント研究に結実する。

二 ケイティブは「近代」の精神史的境位についてのアーレントの診断を高く評価する。「疎外」によって「安心立命 being at home」を失った近代人は、「人間の条件」である「世界性」に対するルサンチマンを極限まで高めており、それが「全体主義の起源」となっている。まずい。「ルサンチマン resentment」から「受け容れ acceptance」へ(この辺りのワーディングがケイティブは非常に巧みである)。アーレントはそういう診断の下、政治哲学の課題を「世界性」の「受け容れ」と捉え、処方箋として、「安心立命」を失ったひとびとの自我を古代的公共圏における「行為 action」によって「世界」の中に位置づける「和解 reconciliation」のプログラムを提示する。この何ともわかりやすいケイティブのアーレント解釈は、1977年のマーティン・ジェイの有名な論文とともに、ポリスへの郷愁+実存主義的「行為」概念というアーレント像を決定的なものにした(という点で、現在のアーレント研究者の間ではあまり評判がよくない)。「みんなで話し合い、公的活動をしよう。そうすればみんな救われるはずだ」という通俗的なアーレント論の起源がここにある。うざい。キモい。でもなんだかそういう結論を出しておけばあまり角が立たない便利な言葉。

三 しかし、ケイティブのアーレント論の面白いところは、その結論部でケイティブが、アーレントの診断を認めながら、そのあまりに政治主導の処方箋を拒んでいる点である。批判のポイントは二つ。ひとつは、古代的な公共圏における政治的行為で「安心立命 being at home」なんていうけど、それムリ。オレ政治苦手だし。二つ目は、完全な「安心立命」なんて「神の死」以後はムリ。むしろ「安心立命なんてムリだっていう近代人の状況の中で、それでもそれなりの安心立命を保っていられる心の強さ the ablility to be at home in not being at home」を涵養すべきではないだろうか。そう、ちょっと強めの個人主義。アーレントは個人主義はだめだっていうけど、「ほどほどの疎外 moderate alienation」をむしろある種の可能性と捉え、公共精神なんていう安倍晋三とかヤンキー先生が喜びそうなものぢゃなく、もっと個人的な「道徳」のレベルでのポジティヴな個人主義ってないだろうか。共同体の一員としてそれなりに責任と義務を背負いつつも、共同体から外れて再帰的――判断の根拠を専ら自分自身の内側に求めるという意味で――に振るまってみるとか。――そしてケイティブは、この「内にありながら、外にいる」("Both in and out of the game"――ホイットマン「ぼく自身の歌」)というエマーソニアン的 "doubleness"(訳すとすれば「二重性」?)をもとに「民主的個人性」理論の構築を試みる。既にアーレント本の段階で、ケイティブは次のようなことをいっている。

近代のあらゆる混乱と不確実性から真に利益を得ているのは、ほどほどの疎外の文化の中で生活し、そうした疎外を共有している民主的な個人たちである。アーレント(や他の思想家たち)は個人主義という一般的な現象こそが疎外の兆候であり現れであると考えているが、これはおそらく正しい。しかしながら、民主的個人性の理論は(そのように自覚されているかどうかはともかく)こうした苦悩や喪失を極めて善いものへと変換したものである。ひとりひとりの個人が個人となれたのは、ほどほどの疎外という一般的な条件によって、その余地が与えられたからである。その様子を、誰よりもはっきりと示したのが、エマーソン、ソロー、ホイットマンであった。……ほどほどの疎外の正しさを語る際の道徳的な単位は、集団としての人類や大衆ではなく、あくまでも個人である。ここでいう個人は、民主的個人のことであって、他の、何の条件も背負っておらず、位置づけももたない幽霊のような個人のことではない。鍵となる点は、エマーソンが『超越主義者』や『運命』において、複雑な感情を込めて、「二重意識」と呼んだ状態、あるいはソローが『ウォルデン』で「二重性」と呼んだ状態にまで高められた自己意識であり、その本質は、ある種の疎外を自ら実践することに存する。(Kateb 1984: 178-179)
四 で、『インナー・オーシャン』。ざっくりいえばポイントは二つ。ひとつ目は、なんというか、いつの時代にも、実務をよく知らない知識人の間には直接民主政への憧れみたいなものがあるのだけど、少なくともケイティブは「憲法の制約下にある代議制デモクラシー constitutional representative democracy」を擁護しているという点。しかもその理由は、この制度的な枠組みがエートスとしての「民主的個人性」を醸成するからという驚くべきもの。ケイティブいわく
権利基底的な個人主義は一般に政治的領域に対して懐疑的であるが、……しかしながら、立憲民主制が組み立てられ、機能する、そのありようは、ある明確なかたちをとった文化の発生を促すところの、強力な道徳的、実存的教訓をもたらす。立憲民主政は、本来的に、非常に大きな道徳的で実存的な現象である。というのも、それは個人の権利に対する尊重をもとに構築されているからである。しかし、それはもうひとつの、非常におおきな、道徳的で実存的な現象に深く関わっている。すなわち、新しい生活様式である。……個人の権利という理論が立憲民主政の手続きと過程の中に具体化されることで、人間の尊厳への関心が確立される。ごく普通のひとでも、虐待を受けることなく、人格として尊重される。歴史的に見ればむしろ例外ともいえる、このびっくりするような事態がひとびとに理解されるには一定の時間が必要である。というのも、国家や支配的なエリートは、ごく普通のひとびとを、抑圧したり、拘束したり、監禁したり、奴隷化したり、搾取したり、黙殺したり、査問したり、差別したりしてきたからである。立憲民主政において形式的にシティズンシップを与えられるということは、このシステムの日常的な機能と相俟って、ひとびとを、劣位の条件と自分は劣っているのだという隷属意識から解放する。立憲民主政の到来は、解放、それも心性と感情の解放なのである。……政府に対して権利を主張しながら生活することと、立憲民主政の日常的な機能を経験することは、時間の経過の中で、ひとびとの自己理解とあらゆる関係性を更新する(revising)ための強力な力をもたらす。権利の意味は社会のすみずみに、つまり政府以外のすべての生活領域に行き渡る。日常生活が更新されることは、民主的個人性の存在をますますはっきりと証明することになる。それは、立憲民主政における権利基底的個人主義の成長と練り上げがもたらす文化的でスピリチュアルな成果にほかならないのである。(io, 25-26)
そして二つ目は、この「憲法の制約下にある代議制デモクラシー」下で醸成される「民主的個人性」がどういう働きをするか。「民主的個人性」には始解(normal level)と卍解(higher or extraordinary level)があって、始解モードではひとびとを〈自分のことは自分で決めたい/他人に束縛されたくない/古いものより新しいものが好き〉な状態にするだけで、別にどうってことないのだが、卍解すると「民主的超越 democratic transcendence」が出現し、ひとびとを〈政治的アンガージュマンとか芸術的創作において既存の秩序を根本的に「チェインジ!」するぞという決意/だれかがどこかで虐待されたり束縛されている状態を嫌悪する気持ち/困っているひとびとを救うために立ち上がる正義のメンタリティ〉をもたらす。

四 で、ケイティブ「民主的個人性」論の位置づけ。まず、それは「ほどほどの疎外」に積極的な意義を見出している点、人間のポジティブな活動をすべて公に回収しない点でアーレントとは異なる。しかし、「公」と「私」を区別し、どれほど豊かなヴォキャビュラリーを醸成しようとも、「私」は「私」なのであって、「私」における「野生の蘭」と「公」における「トロツキー」と結びつけるのはムリだと決めつけるローティと比べると、ケイティブは「私」(ゲームの外側にいること out of the game)に――つまり共同体になじめずふらふらしているエマーソンやソローの根無し草的な個人主義の中に――「民主的超越」の可能性を認めている点で大きな違いが認められる。アーレントのように「公」にすべてを回収することはせず、ローティのように「公」「私」を分断することもせず、ふらふらと「私」を過ごすことにも「公」に切り込む手がかりはあるのだよとつぶやいてみるのがケイティブの立場だろうかというのが、とりあえずの結論。

五 問題提起として、ケイティブのこういう議論については、これって「アメリカ特殊論」なのではないかという批判があるということを紹介。つまり「憲法の制約下にある代議制デモクラシー」を信頼しながら、エマーソン、ソロー、ホイットマンみたいに "Both in and out of the game" でふらふらしとったらええやんというのはあまりにアメリカ特殊論ではないのかと。これに対しては、いやアーレント、ニーチェ、ハイデガー、ミル、トクヴィルを援用しながら「近代とは……」とやっているから単なるアメリカ特殊論ではないという反論も。個人的には割とどうでもいい話。ただ、ケイティブのミル論はいずれちゃんと読んでみたいなと。

質疑応答では、まず「ローティは公私を空間的に区別していない」とIくん。確かにその通り。実際、フェミニズム論(キャサリン・マッキノン論でしたっけ)も書いてたような記憶が。むしろ「正」の側面とと「善」の側面を区別していると説明すべきであったか。

Sさんからはデューイとの違いについて質問。デモクラシーを制度でなく魂とか生活様式の問題と考える点でケイティブとデューイは同じなんだけど、デューイが執拗に制度論を回避し続けたのに対し、ケイティブは「立憲デモクラシー」の制度に(「本当にそれでいいのか?」と突っ込みをいれたくなるぐらい)ほとんど全面的な賛同を。ケイティブにデューイ的危うさは皆無(?)。

午後は「政治哲学の現在」セッション。世話人として参加。うまく進みつつあると安心していたら、フロアからの一喝に空気が凍り付く。「社会的」シンポは前半のみ。懇親会。某論文についてホワイトヘッディアンのHさんにいろいろきかれる。Hさんいわく「あなたはテイラーを擁護するけど、キリスト教徒はリベラルな態度をとれるのか?」。とりあえず「テイラーによれば、無神論だって似たようなもんだ。リベラルであるために、信仰の有無は無関係」と返答。終了後、若手とともに六甲苑で二次会。いろんなひとと話しましたが、ハーバーマスとか、ロールズとか、既に偉い人が立派な研究成果を出している研究対象を選ぶ若手は勇気がありますなあ。(ぼくならば、まだ国内では誰もやってないけど、十分に取り組む価値のあるものを選びます。それと、いま流行しているものは数年後にものすごく廃れてしまう可能性があるので避けます。)終了後、Yさん、Mくんと三次会。割といい店にあたり、ついトリスを飲み過ぎてこの日も午前様。大丈夫か明日の報告。

@1101日。さすがに昨日のように5:00には目が覚めず、打ち合わせが13:30からなので、午前中はペーパーのブラッシュアップとセッションでとりあげられる二冊の本の読み込みに費やす。

というわけで「制度の政治思想史」セッション。ぼくのペーパーはこれ。石川くんのアダムズ本についての書評(というより詳しい紹介とコメント)。

参加者は少なかったのですが(フロアは7人ぐらい?)、個人的な印象だけで言えば、驚きと感動に満ちた不思議な空間が突然現れたというか、忘れられないセッションになりそうです。全員が全く違う対象を研究しているはずなのですが、たぶんああいうコミュニケーションが可能になることはめったにないことだし、計画とか計算で意図的にできることでもないだろうし。あるいは二冊の本がよかったからだろうか。

終了後、なんとなくセッションの五名で六甲苑へ(Iさんは残念ながら大急ぎで空港へ。無事にお帰りになられただろうか……)。出身大学も研究対象も異なる不思議な面子。「まあ、無事に終わってよかったよかった」といろんなことを雑談。

諸々の事情で三つのセッションの世話人に名を連ね、そのうち二つで報告する羽目になりました。敢えて申し添えておくならば、業績を増やそうとかいうことは考えておりません。ただ、楽しい研究の場を何としてでも確保したいという気持ちが相対的に強いということはあるかもしれません。(地方大学で日常的に退屈してますから。)「二つも三つもご苦労さん」と言ってくれるひとがいる反面、「ひとりで幾つもセッションの世話人をやったり、何度も報告をやったりするのはけしからん」と陰でいろいろ言われている可能性も大。しかし、できれば苦情は直接本人にお願いします。遠巻きにされて、陰口をたたかれ出したら、ひとはフェアラッセンハイトして、たぶん凡庸な悪に走るしかないでしょうから。(※「凡庸な悪」というのはアレント語で、ひらたくいえば〈自分でものを考える努力を放棄する〉という程度の意味です。)

ケイティブ報告は月末までに論文にしなければいけないし、同じ〆切で幸福の実現について何か話を考えなければならないとはいえ、明日から日常モード。木曜日には大学訪問と模擬授業も。

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