『歴史とは何か』を読む(2)
第二章「社会と個人」においてカーは、歴史を「<歴史家という個人>による<研究対象となる個人>についての研究」と見なす立場を批判し、<歴史家という個人>と<研究対象となる個人>が共に個別具体的な歴史的文脈の中での<社会現象>であるということを論じている。(<歴史家を単独の個人と見なすことは不適切である>説については第3~6節、<歴史上の事実を単独の個人に関する事実と見なすことは不適切である>説については第7~12節)
まずは問題設定。本章で試みられるのは、前章で検討した「歴史とは<現在=歴史家>と<過去=事実>との間の尽きることを知らぬ対話である」という命題の「両側」――<現在=歴史家>と<過去=事実>――における「個人的要素と社会的要素の比重」を検討すること。
……歴史の常識的な見方からすれば、歴史とは諸個人が諸個人について書いたものであります。確かに、、この見方は、十九世紀のリベラルな歴史家たちによって受け容れられ奨励されて参りましたし、また、本質的に間違っているわけでもありません。しかし、それは単純すぎる不十分な見方のように思われますので、少し立ち入って検討する必要があります。歴史家の知識というのは、彼だけの個人的所有物ではなく、恐らくは、多くの世代に亙る人々が、多くの国々に跨る人々がその蓄積に参加してきているのです。また、歴史家がその行為を研究する〔歴史研究の対象である〕当の人々にしても、真空の中で行為した孤立した個人ではなく、過去のある社会の文脈の中で、また、それに衝き動かされながら行為していたのです。前回の講演で、歴史とは現在の歴史家と過去の事実との間の相互作用の過程である、対話である、と私は申しました。今後は、この方程式の両側における個人的要素と社会的要素との比重を研究しようと考えます。歴史家はどこまで単独の個人なのでしょうか、そして、どこまで自分の社会および時代の産物なのでしょうか。歴史上の事実は、どこまで単独の個人に関する事実で、どこまで社会的事実なのでしょうか。(47-48頁)次に、歴史家の思考の歴史性の実例。具体的には、グロート、モムゼン、トレヴェリアン、ネーミア、マイネッケ、バターフィールドを例に、歴史家の過去への視角が如何に同時代的文脈の影響下にあるかを検証。まずはグロートとモムゼン。
さて、歴史家は一人の個人であります。それと同時に、他の多くの個人と同様、彼はまた一個の社会的現象であって、彼の属する社会の産物であると同時に、その社会の意識的あるいは無意識的なスポークスマンであって、こういう資格において、彼は歴史的過去の事実に近づいていくのです。……歴史家は歴史の一部なのです。現に歴史家が立っている行列〔歴史の進行〕中の地点が過去に対する彼の視角を決定するのです。次に、ネーミアを例に、歴史から思想を追放したがる保守主義者のメンタリティを。この公理は、歴史家の取り扱う時代が彼自身の時代から遠く距たっている場合でも同じように通用するものであります。私が古代史を研究しておりました当時、この問題についての古典は――恐らく今でもそうでしょうが――グロート〔1794-1871〕の『ギリシア史』とモムゼン〔1817-1903〕の『ローマ史』とでありました。グロートは1840年代に著作活動をした、頭の進んだ急進的な銀行家で、進歩的な新興イギリス中産階級の大望をアテナイの民主政治の理想化された姿のうちに盛り込み、そこではペリクレスがベンサム主義的改革者の役割を果たし、不覚にもアテナイが一大帝国を獲得するに至っているのでした。グロートがアテナイの奴隷制の問題を無視しているのは、彼がその一員である集団が新しいイギリスの工場労働者という階級の問題に立ち向かう気力がないことの証拠だと考えても突飛ということはありますまい。
モムゼンはドイツのリベラリストで、1848年から1849年にかけてのドイツ革命で疲れ傷ついた失意の人でありました。モムゼンは1850年代――現実政治という名称および概念が生まれた十年間――に著作活動をしておりましたが、彼は、その政治的大望の達成に敗れたドイツ国民が後に残した混乱を一掃すべき強力な人間が必要だという考えにとりつかれていたのです。したがって、モムゼンがシーザーに加えた有名な理想化も、ドイツを廃墟から救うべき強力な行動的人物へのこうした憧憬の所産なのでありますし、法律家であり政治家であるキケロ、この無能なお喋り、この狡猾因循な男も、1848年、フランクフルトのパウル教会の憲法討議の席から真っ直ぐに歩み出てきたように見えているのですから、こういう点を掴んでいないと、私たちは決してモムゼンの歴史の本当の価値が判らないのです。実際、グロートの『ギリシア史』は、今日、紀元前五世紀のアテナイの民主政治について私たちに語っているのと全く同様に、1840年代のイギリスの哲学上の急進主義者たちの思想について語っているとか、ドイツの自由主義者に対する1848年の革命の意味を理解しようとする人は、モムゼンの『ローマ史』を教科書の一冊に加えるべきであるとか、そういう風に言う人があっても、私は飛んでもない珍説とは思わないでしょう。このことは何も偉大な歴史的著作としての地位を低めることにはなりません。
ビュリが就任講演で、モムゼンの偉大さは彼の『ローマ史』にあるのではなく、彼による碑文の集成およびローマ憲法に関する業績にある、と主張して以来、これが流行になっておりますが、私には我慢がならないのです。これ〔歴史家モムゼンの業績を単なる事実の編纂に限定してしまうこと〕は歴史を編纂というレベルに引き下げてしまうものです。過去に対する歴史家のヴィジョンが現在の諸問題に対する洞察に照らされてこそ、偉大な歴史は書かれるのです。(48-50頁)
現代の歴史家のうちにも、こういう種類の〔歴史家の現在への問題意識が彼の過去への視角を大きく規定している〕例はまだ沢山あります。……ネーミア〔1888-1960〕は真実の保守主義者――一皮剥けば、75パーセントは自由主義であるというようなイギリスの典型的な保守主義者ではなく、この百年以上を通じてイギリス歴史家の間にその類を見なかったような保守主義者でありました。思想や哲学が前世紀中葉から1914年にかけて、イギリスの歴史家にしてみれば、歴史的変化ということは、より良いものへの変化としてでなければ、殆ど考えようがありませんでした。ところが、1920年代、私たちは、変化ということが将来への恐怖と結びつき始めた時期、変化がより悪いものへの変化と考えられるような時期――保守主義思想の復活の時期――へと入り込むことになったのです。アクトンのリベラリズムと同じように、ネーミアの保守主義の強さも深さも、それが大陸的背景に根ざしているところから来ていたのです。ところが、ネーミアは、彼の同時代者であるフィッシャーやトインビーとは違って、その根を19世紀のリベラリズムのうちに持っておらず、それに対する未練に苦しむことがありませんでした。第一次世界大戦および空しかった平和がリベラリズムの破産を明らかにした後は、〔19世紀の楽観主義的・自由放任主義的リベラリズムに対する〕反動は二つの形態――社会主義か保守主義か――のうちの一つとして現れるほかはなかったのです。
ネーミアは保守主義の歴史家として登場いたしました。彼は二つの分野を選んで研究を進めましたが、この二つを選んだことが重要なのです。イギリス史では、彼は、支配階級が、秩序ある、かなり静的な社会のうちで地位および権力を合理的に追求する力があった最後の時期へ遡って行きました。ネーミアは精神というものを歴史から除き去った、と誰かが非難したことがあります。どうも、これはあまり適切な言葉ではないようですが、しかし、この批評家が指摘しようとした点は判ります。ジョージ三世即位の時代の政治は、まだ思想のファナティシズム、すなわち、フランス革命とともに世界を襲い、リベラリズム勝利の世紀を導き入れた、あの進歩の熱狂的信仰というファナティシズムを免れておりました。〔その時代は〕いかなる思想も、いかなる革命も、いかなるリベラリズムもなかったので、ネーミアは、これら一切の危険からまだ安全な――いつまでも安全というわけではありませんが――時代の輝かしい肖像を私たちに与えるという道を選んだのです。
しかし、ネーミアが第二のテーマを選んだことも同様に重要でありました。ネーミアは、イギリス、フランス、アメリカ、ロシアの、近代の創造的な革命を無視し――どれについても彼はこれという内容のあることを書きませんでした――そして、1848年のヨーロッパの革命、すなわち、挫折した革命、高揚するリベラリズムの願望の全ヨーロッパ的な後退、武力に直面した場合の思想の、兵士と向き合った場合の民主主義者の空しさという事実、それの透徹した研究を私たちに与えるという道を選んだのであります。ネーミアはこの恥多き挫折を「インテリの革命」と名付け、政治という真剣な仕事の中へ思想が入り込むのは無益であり、危険であるという教訓を繰り返し説いたのであります。私の結論は単に憶測によるものではありません。確かにネーミアは歴史哲学について何一つ系統的に述べてはおりませんが、しかし、二、三年前に公にされた論文の中で、彼はいつもの明晰痛烈な調子で自説を述べているからです。「したがって、政治的な学説や教理で自分の精神の自由な活動を妨げることが少なければ少ないほど、彼の思考には都合がよいのである。」そして、歴史から精神を除き去ったという非難にみずから触れた後、これを否定せぬままに続けています。
政治哲学者の中には、現在のイギリスでは一般の政治問題の議論が「たるんでいる」とか、存在しないとか、具体的問題のために実際的解決が求められるばかりで、両党ともプログラムや理想を忘れているとか嘆く人がいる。しかし、私の見るところでは、こういう〔原理的な問題を放棄して具体的問題の実際的解決ばかりに汲々としている〕態度はわれわれが国民として成熟してきたことを示しているように思う。私としては、この態度が政治哲学の働きに煩わされることなしに永く続いていくことを願うのみである。今は、私はこの〔政治に哲学を持ち込むことを危険視する保守的な〕見解と争うつもりはありません。……ここでの私の目的は、二つの重要な真理、すなわち、第一に、歴史家が研究に向かって行く場合の立場を最初に掴んでおかないと、歴史家の研究を十分に理解することも評価することもできないということ、第二に、この立場はそれみずからが社会的歴史的背景に根ざしているということ、これを明らかにすることだけであります。(51-54頁)
煩瑣になるが、マイネッケの例も。
……激動期の歴史家の中には、その著作のうちに一つの社会的秩序でなく、さまざまの秩序の景気を反映している人があるものです。私の知っている限りで最も良い例はドイツの大歴史家マイネッケ〔1862-1954〕であります。その生涯も活動も著しく長期に亙っており、自国の運命に於ける幾多の革命的および破局的な変化を含んでおりました。実は、違ったマイネッケが三人いて、その一人一人が異なった歴史的時代のスポークスマンであり、それぞれ彼の三大著作の一つを通じて語っているというわけなのです。次に、<過去の事実>の社会性(非個人性)の検討。歴史を動かした偉人は<偉大な個人>なのか、それとも<同時代の文脈の影響下にあった社会現象>なのかという問い。もちろん、カーは後者の立場。1907年出版の『世界市民主義と民族国家』のマイネッケは、ビスマルクのドイツ帝国をドイツの民族的理想の実現であると確信し、そして、――マッチーニ以後の19世紀の多くの思想家たちと同じように――民族主義を普遍主義の最高形態と見ております。要するに、これはビスマルク時代に続くグロテスクなヴィルヘルム時代の産物であります。
1925年出版の『国家理性の観念』のマイネッケになりますと、ヴァイマル共和国の分裂し当惑した精神で語っています。つまり、政治の世界は国家理性と、政治にとって外的な倫理との間の決着のつかぬ闘争の舞台になってしまったが、この倫理も結局は国家というものの生命や安全を無視することはできないというわけです。
最後に、彼がナチの支配のためにアカデミックな栄誉を失っていた1936年に出版された『歴史主義の成立』のマイネッケは、存在するものは何でも正しいと認める歴史主義を斥けつつ、歴史的な相対的なものと超合理的な絶対的なものとの間を不安な気持ちで動揺しつつ、絶望の声を上げているのです。
そして、到頭、高齢のマイネッケは、自国が1918年の敗北に輪をかけて壊滅的な軍事的敗北に倒れるのを見るに及んで、1946年出版の『ドイツの悲劇』においては、歴史は盲目で仮借ない偶然に翻弄されているという信仰に力なく落ち込んでいってしまったのでした。心理学者や伝記作者なら、個人としてのマイネッケの発展に興味を持つでしょう。しかし、歴史家にとって興味があるのは、現在といっても、そこには三つの――いや、四つの時期が対照も鮮やかに相次いで存在しており、それをマイネッケが歴史的過去のうちに反映させているその様子なのです。
……私の現在の目的は、歴史家の研究が、そこで研究活動を行なっている社会をいかに正確に映し出しているか、それを示そうというに尽きております。流れの中にあるのは事件だけではありません。歴史家自身も流れの中にいるのです。歴史的著作を手に取る場合、扉に著者名を探すだけでは足りません。刊行乃至執筆の年代を探すことも必要で、その方が時には有益なものであります。二度と同じ川に足を入れることは出来ない、という哲学者の言葉が正しいのならば、同じ歴史家が二冊の本を書くことは出来ない、というのも恐らく同様に真実でしょうし、またその理由も同じでしょう。(55-59頁)
……〔歴史における偉人の個人的役割を強調したがる〕歴史における偉人学説――その特色ある一例としての善女王エリザベス学派――も近年は流行遅れになってしまいましたが、それでも、また時にはそのぶざまな頭を擡げております。結論としては、歴史の「二重機能」(<現在の光で過去を眺めること>と<過去の光で現在を眺めること>)。……歴史における偉人の役割は何でしょうか。偉人は一個の個人ではありますけれども、卓越した個人であるため、同時に、また卓越した重要性をもつ社会現象なのであります。……私が攻撃を加えたいと思うのは、偉人を歴史の外に置いて、突如、偉人がどこからともなく現れ、その偉大さの力で自分を歴史に押しつけるというような見方、「ビクーリ箱よろしく、偉人が暗闇から奇蹟の如く立ち現れて、歴史の真実の連続性を中断してしまう」というような見方にほかなりません。今日でも、私は、次に掲げるヘーゲルの古典的な叙述は完璧なものだと考えております。
ある時代の偉人というのは、彼の時代の意志を表現し、時代の意志をその時代に向かって告げ、これを実行することの出来る人間である。彼の行為は彼の時代の精髄であり本質である。彼はその時代の実現するものである。リーヴィス博士は、偉大な作家が重要なのは「彼が人間の自覚を進めるという点においてである」と言っていますが、これも同じことです。いつも偉人というものは、現存諸勢力の代表者であるか、さもなければ、現存の権威に挑戦して新たな創造を助けようとしている諸勢力の代表者であります。しかし、ナポレオンやビスマルクのように、既存の諸勢力に跨って偉大になった人々よりも、クロムウェルやレーニンのように、自分たちを偉大にした〔反体制的な〕勢力そのものを作り上げるのに貢献した偉人の方に、一層高い創造性が認められるのではないでしょうか。また、自分の時代よりも進みすぎていたために、ようやく後代に至ってその偉大さが知られるようになった偉人たちのことも忘れてはなりません。私が大切だと考えますのは、偉人とは、歴史的過程の産物であると同時に生産者であるところの、また、世界の姿と人間の思想とを変える社会的諸力の代表者であると同時に創造者であるところの卓越した個人であると認めることであります。(75-77頁)
……歴史というのは、この言葉の二つの意味で――すなわち、歴史家が行う研究という意味でも、歴史家が研究する過去の事実という意味でも――一つの社会過程でありまして、個人は社会的存在としてこの過程に入り込んでいるのであります。社会と個人との架空の対立は、私たちの思考を混乱させるための陥穽に過ぎません。歴史家とその事実との間の相互作用という相互的過程――これは前に現在と過去との対話と呼んだものですが――は抽象的な孤立した個人と個人との間の対話ではなく、今日の社会と昨日の社会との間の対話なのです。……過去は、現在の光に照らして初めて私たちに理解できるものでありますし、過去の光に照らして初めて私たちは現在をよく理解することができるものであります。人間に過去の社会を理解させ、現在の社会に対する人間の支配力を増大させるのは、こうした歴史の二重機能〔<現在の光で過去を眺めること>と<過去の光で現在を眺めること>〕にほかなりません。(77-78頁)なるほどと思いつつ、しかし現在有力な見方は<現在の光で過去を眺めること>と<現在の光で現在を眺めること>なのだろうなと。
「過去に学ぶことなんてあるんでしょうか?」「過去といっても、研究するに値するのは、<現在でも使える過去>だけですよね?」という暴力的な問いかけに、カーならばどう答えたのだろうかと。
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