昨年秋の社会思想史学会「政治哲学の現在」セッションの報告書をやっと書き上げる。〆切は過ぎているのですぐにでも提出すべきだが、頭を冷やすために一日だけ寝かせよう。
報告書はこんな感じ。
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社会思想史学会第35回研究大会 「政治哲学の現在」セッション報告書
世話人:小田川大典(岡山大学)
司会:小田川大典(岡山大学)
報告:上原賢司(早稲田大学):国境を越える分配的正義
遠藤知子(慶応義塾大学):デモクラシーと分配的正義
山下孝子(慶應義塾大学、非会員):分配的正義と承認の政治
討論:五野井郁夫(立教大学、非会員)、小田川大典(岡山大学)
今回のセッションでは、アリストテレス以来、様々なかたちで論じられてきた分配的正義について、三人の報告者がグローバル・ジャスティス論、デモクラシー論、承認の政治の観点から報告し、小田川(政治思想史)と五野井郁夫(非会員、国際政治思想史)がコメントと討論を担当した。参加者は約50名と盛況であり、関心の高さが伺われた。
上原報告は、グローバルな分配的正義(より正確には基本的ニーズに関わる配分的正義)が先進諸国に課す再分配の義務の特質と、この義務を履行していない行為主体の存在(非遵守)の問題について、トマス・ポッゲの議論を敷衍しつつ、検討する試みであった。
ポッゲのいうグローバルな正義の観点からいえば、先進諸国(とその市民)が絶対的貧困に苦しむ世界中の人びとに対して負う義務は、「何らかの援助を行うべきである」という積極的義務というよりは、「危害(貧困)をもたらす行為に加担すべきではない」という消極的義務としての側面が強い。いわば、ポッゲの理想は、危害行為への加担を最大限回避することによる「最小不幸国際社会」の実現である。だが、現今のグローバルな制度的秩序は絶対的貧困を未解決のまま放置しており、先進諸国は、そのような秩序の形成、維持に関与している点において、貧困をもたらす行為に加担しつづけているといえる。そして、そのような危害への加担を免れることが事実上不可能である以上、どの先進諸国も例外なく「危害行為に加担すべきではない」という消極的義務を果たしえていない。そしてポッゲによれば、貧困をもたらす秩序への関与を避けられない以上、先進諸国には、結果的に発生した危害に対する補償という積極的義務が発生し、実質的には積極的な再分配の義務を果たすことが求められることになる。
だが現状においては、この積極的な再分配義務について、先進国の側に、非遵守の態度が部分的に見られる。また、こうした非遵守国の負担分を遵守国に追加的に課すことは負担として不公平である。消極的義務論を梃子に先進諸国に積極的な補償を求めるポッゲの議論は、この点で難問を抱えることになる。こうした問題の検討を踏まえ、報告では、先進諸国に求められる積極的な正義の義務として、実際の遵守を確保するようなグローバルな制度的枠組みの構築と、他国の遵守の有無に関わらず各国に要求される公正な再分配の義務、という二つのレベルに分節化して考えるべきではないか、ということが示唆された。
遠藤報告は、政治哲学の観点からデモクラシー(政治的平等)と分配的正義(経済的平等)の内在的な関係を明らかにする試みであり、具体的には『正義論』の社会的協働(social cooperation)の概念に注目し、ロールズの分配的正義論が原理と実践の両方において民主的な原理を含意していることを分析的に検証するものであった。
ロールズにおいて社会的協働は、分配的正義の枠組みとして位置づけられている。社会的協働における互恵的な関係はそれに関わる人びとの共通の利益を生むが、協働によって発生する余剰(cooperative surplus)としての社会的・経済的利益は、個々人を道徳的に平等な存在として認めるかたちで分配される必要がある。だがその一方で、この分配的正義の原理は、個々人を平等に扱うものとして人々が公的に同意できるものでなければならない(そうでなければ互恵性 reciprocity が成立しない)。
報告では、このように分配的正義の原理が公的に同意可能でなければならないという条件において、ロールズの分配的正義論が原理的にも実践的にもデモクラシーを前提としていることを示すことが試みられた。正義の原理の公的同意可能性は、人びとが自らの政治政策に対して理性的に判断をし、正当化するという民主的な社会を前提としている。また、何が正義に適った制度や政策であるかについて論争が避けられない以上、個々人を平等な存在として扱うには、公的な正義の原理と照らし合わせてそうした政策を政治的に正当化するプロセスが不可欠である。以上の理由から、分配的正義にはデモクラシーの原理と実践とが構成的に内在していると考えられる。
分配的原理とデモクラシーの原理とを切り離せないということは、分配的正義の枠組みであるところの社会的協働の関係が、同時にデモクラシーの枠組みでもあることを意味している。報告では、このことの含意として、分配的正義とデモクラシーの内在的関係を踏まえるならば、社会的協働に携わることを通じて分配的正義の対象となる人びとには、民主的な権利も付与されなければならないということが示唆された。
山下報告は、ナンシー・フレイザーとアクセル・ホネットが90年代以降に分配的正義論批判として展開した承認論(「承認の政治」論)についての検討の試みであった。
報告によれば、ロールズの分配的正義(distributive justice)論は本来、たんなる経済的資源の配分をめぐる配分的正義(allocative justice)論に対する批判を出発点としており、経済的資源のみならず自由や権利やシティズンシップ等をも含む「基本財」全般の分配を念頭に置いた政治制度をめぐる原理的な構想であった。だが、特に格差原理をめぐる議論に見られるように、ロールズの分配的正義をめぐる議論においては、経済的資源やそれに準ずるものについての分配に比重が傾きがちである。フレイザーは正義概念の分析を通じて、再分配(redistribution)によって応答すべき経済的不正義とは次元を異にする文化的不正義の存在を指摘し、後者に対しては「承認」(recognition)によって応答すべきだという「視点的二元論」を唱えた。だが、フレイザーの承認論は、当初こそ多文化主義的な差異への配慮という再分配政策と緊張関係にある主張に力点を置いていたものの、「承認を再考する」(2000年)以降は、平等な道徳的主体としての地位の承認を重視する普遍主義的な「地位モデル」へと転回し、結果的に「社会的地位」をめぐる分配的正義論という性格を強め、ロールズ的な平等主義的リベラリズムとの距離を狭めることになった。
フレイザーの議論が「再分配だけでなく承認も」という二元論であったのに対し、ホネットの承認論は、ロールズのいう「背景的正義」の更に背後にある資本主義社会特有の価値体系(「基礎的で包括的な道徳カテゴリー」)として承認関係を捉え、分配的正義の問題をあくまでも「承認関係」を構成する「第三類型」(あるいは第二類型を含む)と位置づける(承認に特化した)壮大な「道徳理論的一元論」であり、そこから導き出されるのは、主体の日常的な不正義経験(「屈辱および尊敬の欠如という現象」)を起点としつつ、相互行為によって資本主義社会の承認規範を問い直すというつつましい提案であった。
このように、しばしば「再分配対承認」論争と呼ばれてはいるものの、フレイザーやホネットの承認論は、決してロールズ分配的正義論に対する一方的な批判ではなく、むしろそれを補い、深めるための議論であり、分配的正義論と承認論は、制度のあり方を根本的に問い直す作業と不正義に対する日常的な感覚の陶冶を両輪とする政治哲学という知的営為にとって、どちらも不可欠の知見であるというのが報告の結論であった。
紙幅の都合もあるので討論者からのコメントはそれぞれ一点ずつの紹介にとどめる。まず上原報告について、小田川からは、ポッゲの議論にはいわゆる国内類推(中央政府のある国内政治の議論を国際社会という無政府状態に類比的に適用すること)特有の困難が伴うのではないかという指摘があり、五野井氏からは、非遵守常態化の改善のためのグローバルなルールとして、財の一部移転を可能にしつつある国連ミレニアム開発目標など世界政治の現状の進展に引きつけて論じる必要があるのではないかという指摘があった。遠藤報告について、小田川からは、政治的平等と経済的平等(分配的正義)の内在的な繋がりは両者の現実的な結びつきを必ずしも担保しないのではないか(たとえばデモクラシーが所得格差などの経済的不平等を拡大する可能性はないのか)という指摘があり、五野井氏からは、ロールズの議論は、結局のところ先進諸国の圏域に内在的であり、それ以外の圏域では困難である可能性が高く、ゆえに国境を越えた社会的協働の適用範囲としては理論的な幅が狭くならざるをえないのではないかという指摘があった。山下報告について、小田川からは、報告では経済的正義論(再分配)と文化的正義論(承認)の収斂の可能性が示唆されていたが、フレイザーの当初の議論のように両者を切り離して論じることにも一定の理論的な強みがあるのではないかという指摘があり、五野井氏からは、ホネットのつつましい提案には、分配的正義と承認の政治だけではなく、トマス的な意味での交換的正義論にも通じる可能性が認められるのではないかという指摘がなされた。
三人の報告者が制限時間を守ったにも関わらず、司会の不手際のため、壇上での討論に想定外の時間を費やし、結果的にフロアの参加者の方々との討論のための時間を十分に確保することができなかった。フロアとの開かれた討論を重視するというセッションの趣旨からいえば、これは極めて遺憾なことであり、世話人・司会者として猛省する次第である。
その短い質疑応答の時間に、二人の会員から重要な質問とコメントを頂いたのでここに記しておきたい。まず横浜国立大学の有江大介会員からは、①上原報告で提示された「最小不幸国際社会」(この表現そのものは司会者が整理のために用いたものであるが)などの幾つかの議論は、ロールズが批判しているはずの功利主義の思想であるが、グローバル・ジャスティス論は功利主義に思想的に近いものと理解してよいかという質問と、②山下報告で(Samuel Fleischacker, A Short History of Distributive Justice, 2004 をもとに)整理された分配的正義の概念史には事実誤認があるのではないかというコメントを頂いた。また岡山大学の新村聡会員からは、①三人の報告者が分配的正義をどのようなものと捉えているのかが不明瞭であり、それぞれの定義を報告の冒頭で示すべきであったというコメントと、②現代日本における分配的正義をめぐる具体的な諸問題、たとえば必要原則と貢献原則の問題や、応益負担と応能負担の問題についての議論が皆無なのは残念であったというコメントを頂いた。時間的に応答は不可能であったが、今後の議論に繋げていきたい。
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どうだろうか、すこぶる面白いセッションであったことはうまく伝わっているだろうか。まとめを書きながら「このセッションが面白くなかったとかいう奴、爆発しろ」とかぶつぶつつぶやいてたんですが。
これ、報告者が報告を論文にしてたら、その書誌情報とか載せるべきだろうね。