Friday, January 20, 2012

【近刊】齋藤純一・田村哲樹編『アクセス デモクラシー論』日本経済評論社、2012

齋藤純一・田村哲樹編『アクセス デモクラシー論』(日本経済評論社、2012)が下旬に刊行されます。24日辺りだとか。

版元(目次等の情報) http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-8188-2194-1.html

amazon.co.jp (予約が始まったようです)

原稿が遅れ、大変なご迷惑をおかけしました。すんませんすんませんすんません。>関係者各位

でも、刊行されてよかったです。目次を見ればわかりますが、ぼく以外はもの凄い布陣です。このお二人が組むとこんな本ができるのですね。

2012年はデモクラシー論研究が日本の知識社会を席巻するのではないかと予想しております。

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Tuesday, October 18, 2011

命令文?――ロールズ『政治哲学史講義』落ち穂拾い(その一)

ロールズ『政治哲学史講義』の次の一節の訳について、「根本的な誤解」があると、あるシジウィック研究者の方からご指摘を頂きました。"comparative" の意味を取り違えていること、命令文であることを把握していないこと、が問題なのだそうです。まずは原文。

(c) Then combine these presumptions to give an account of comparative moral judgments, and it is not unnatural to say that from the point of view of the judicious spectator we approve more strongly, to a higher degree, of one institution or set of qualities than another, if it produces (or seems designed to produce) more happiness.
拙訳。
(c) そして、道徳的判断による《比較》を行なうべく、こうした推定を組み合わせていくならば、次のようにいうことができる。すなわち、賢明な観察者の観点からみれば、わたしたちは、ある特質の制度制度や特質が、別の制度や特質よりも大きな幸福をもたらすとき(あるいはもたらすように設計されていると思われるとき)、その制度や特質により強い賛同と高い評価を与えるであろう、と。
"to give an account of comparative moral judgments" の訳「道徳的判断による比較を行なうべく」は確かにちょっとおかしくて、"give an account of" は「~を説明する」と訳すべきだから、そこのところを修正した場合の拙訳修正版。
(c) そして、道徳的な《比較》判断についての説明を行なうべく、こうした推定を組み合わせていくならば、次のようにいうことができる。すなわち、賢明な観察者の観点からみれば、わたしたちは、ある特質の制度制度や特質が、別の制度や特質よりも大きな幸福をもたらすとき(あるいはもたらすように設計されていると思われるとき)、その制度や特質により強い賛同と高い評価を与えるであろう、と。
"comparative" はこの文の主節における二つの制度の帰結主義的な比較に対応しているというのがぼくの理解で、それが「根本的な誤解」であるという指摘の意味は正直よくわからんです。

あと、命令文であることがわかってないということなんですが、いやこれ命令文+ and 構文だから、命令文の部分は条件節ととるべきでしょう。(Seek it, and you shall find it. 求めよ、さらば与えられん。)全体構造が、

combine X to give Y, and it is not unnatural to say that節.

だから、「Yを与えるべく、Xを組み合わせていけば、that節のようなことを言っても不自然ではない」と訳したのですけど、これで「命令文であることがわかってない」ということになるんですかね。

なんだかなあ。

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Tuesday, September 20, 2011

日本政治学会総会・研究大会@岡山大学20111008_10

2011年度日本政治学会研究大会が10/08(土)・09(日)に岡山大学津島キャンパスで開催されます。(10/10月・祝の国際フォーラム「3.11後の政治学と日本の政治」の会場は岡山県総合福祉会館大ホールです。)

2011年度 総会・研究大会(公式)

当時配布の会場案内です(ここをクリック!)。交通案内、地図、部屋割り等の情報が出ています。

個人的に作ったバスの時刻表一覧(ここをクリック!)も置いときます。欲しい方はどうぞ。

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Monday, May 16, 2011

颯爽登場、『国際政治哲学』!

Twitter ではすでにいろいろつぶやきましたが、気鋭の国際政治学な方々と作った教科書が本日発売になります。

小田川大典/五野井郁夫/高橋良輔(編)『国際政治哲学』ナカニシヤ出版、2011年。
版元詳細目次 http://j.mp/eIiA6L
密林 http://amzn.to/jStGUk
書影その一 http://twitpic.com/4tzcru
書影その二 http://twitpic.com/4wa45y
『国際政治哲学』をめぐる噂話(togetter) http://togetter.com/li/126311

Nakanishiya Companions to Social Science というシリーズの第一弾。正式にスタートしたのが2008年10月の政治学会大会の頃ですので、二年半かかったことになります。

姉妹編の『政治哲学』も作業中です。遅れている原因はほかならぬぼく自身の仕事の遅延なのですが……

教科書の割に初刷りの部数は控えめです。教科書として使ってもらえる可能性が必ずしも高くないであろうことは覚悟しておりますが、主要な大学の附属図書館ぐらいには配架されるといいなと願っております。

どうかよろしく。

※但し、ぼく自身は「はじめに」と「あとがき」しか執筆しておらず、自身の研究者としての業績とは決していえないので、献本は仕事上の義理のある方々に限定させて頂きました。悪しからず。

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Monday, February 21, 2011

「分配的正義論の現在」セッション報告書

昨年秋の社会思想史学会「政治哲学の現在」セッションの報告書をやっと書き上げる。〆切は過ぎているのですぐにでも提出すべきだが、頭を冷やすために一日だけ寝かせよう。

報告書はこんな感じ。

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社会思想史学会第35回研究大会 「政治哲学の現在」セッション報告書
世話人:小田川大典(岡山大学)
司会:小田川大典(岡山大学)
報告:上原賢司(早稲田大学):国境を越える分配的正義
   遠藤知子(慶応義塾大学):デモクラシーと分配的正義
   山下孝子(慶應義塾大学、非会員):分配的正義と承認の政治
討論:五野井郁夫(立教大学、非会員)、小田川大典(岡山大学)

今回のセッションでは、アリストテレス以来、様々なかたちで論じられてきた分配的正義について、三人の報告者がグローバル・ジャスティス論、デモクラシー論、承認の政治の観点から報告し、小田川(政治思想史)と五野井郁夫(非会員、国際政治思想史)がコメントと討論を担当した。参加者は約50名と盛況であり、関心の高さが伺われた。

上原報告は、グローバルな分配的正義(より正確には基本的ニーズに関わる配分的正義)が先進諸国に課す再分配の義務の特質と、この義務を履行していない行為主体の存在(非遵守)の問題について、トマス・ポッゲの議論を敷衍しつつ、検討する試みであった。

ポッゲのいうグローバルな正義の観点からいえば、先進諸国(とその市民)が絶対的貧困に苦しむ世界中の人びとに対して負う義務は、「何らかの援助を行うべきである」という積極的義務というよりは、「危害(貧困)をもたらす行為に加担すべきではない」という消極的義務としての側面が強い。いわば、ポッゲの理想は、危害行為への加担を最大限回避することによる「最小不幸国際社会」の実現である。だが、現今のグローバルな制度的秩序は絶対的貧困を未解決のまま放置しており、先進諸国は、そのような秩序の形成、維持に関与している点において、貧困をもたらす行為に加担しつづけているといえる。そして、そのような危害への加担を免れることが事実上不可能である以上、どの先進諸国も例外なく「危害行為に加担すべきではない」という消極的義務を果たしえていない。そしてポッゲによれば、貧困をもたらす秩序への関与を避けられない以上、先進諸国には、結果的に発生した危害に対する補償という積極的義務が発生し、実質的には積極的な再分配の義務を果たすことが求められることになる。

だが現状においては、この積極的な再分配義務について、先進国の側に、非遵守の態度が部分的に見られる。また、こうした非遵守国の負担分を遵守国に追加的に課すことは負担として不公平である。消極的義務論を梃子に先進諸国に積極的な補償を求めるポッゲの議論は、この点で難問を抱えることになる。こうした問題の検討を踏まえ、報告では、先進諸国に求められる積極的な正義の義務として、実際の遵守を確保するようなグローバルな制度的枠組みの構築と、他国の遵守の有無に関わらず各国に要求される公正な再分配の義務、という二つのレベルに分節化して考えるべきではないか、ということが示唆された。

遠藤報告は、政治哲学の観点からデモクラシー(政治的平等)と分配的正義(経済的平等)の内在的な関係を明らかにする試みであり、具体的には『正義論』の社会的協働(social cooperation)の概念に注目し、ロールズの分配的正義論が原理と実践の両方において民主的な原理を含意していることを分析的に検証するものであった。

ロールズにおいて社会的協働は、分配的正義の枠組みとして位置づけられている。社会的協働における互恵的な関係はそれに関わる人びとの共通の利益を生むが、協働によって発生する余剰(cooperative surplus)としての社会的・経済的利益は、個々人を道徳的に平等な存在として認めるかたちで分配される必要がある。だがその一方で、この分配的正義の原理は、個々人を平等に扱うものとして人々が公的に同意できるものでなければならない(そうでなければ互恵性 reciprocity が成立しない)。

報告では、このように分配的正義の原理が公的に同意可能でなければならないという条件において、ロールズの分配的正義論が原理的にも実践的にもデモクラシーを前提としていることを示すことが試みられた。正義の原理の公的同意可能性は、人びとが自らの政治政策に対して理性的に判断をし、正当化するという民主的な社会を前提としている。また、何が正義に適った制度や政策であるかについて論争が避けられない以上、個々人を平等な存在として扱うには、公的な正義の原理と照らし合わせてそうした政策を政治的に正当化するプロセスが不可欠である。以上の理由から、分配的正義にはデモクラシーの原理と実践とが構成的に内在していると考えられる。

分配的原理とデモクラシーの原理とを切り離せないということは、分配的正義の枠組みであるところの社会的協働の関係が、同時にデモクラシーの枠組みでもあることを意味している。報告では、このことの含意として、分配的正義とデモクラシーの内在的関係を踏まえるならば、社会的協働に携わることを通じて分配的正義の対象となる人びとには、民主的な権利も付与されなければならないということが示唆された。

山下報告は、ナンシー・フレイザーとアクセル・ホネットが90年代以降に分配的正義論批判として展開した承認論(「承認の政治」論)についての検討の試みであった。

報告によれば、ロールズの分配的正義(distributive justice)論は本来、たんなる経済的資源の配分をめぐる配分的正義(allocative justice)論に対する批判を出発点としており、経済的資源のみならず自由や権利やシティズンシップ等をも含む「基本財」全般の分配を念頭に置いた政治制度をめぐる原理的な構想であった。だが、特に格差原理をめぐる議論に見られるように、ロールズの分配的正義をめぐる議論においては、経済的資源やそれに準ずるものについての分配に比重が傾きがちである。フレイザーは正義概念の分析を通じて、再分配(redistribution)によって応答すべき経済的不正義とは次元を異にする文化的不正義の存在を指摘し、後者に対しては「承認」(recognition)によって応答すべきだという「視点的二元論」を唱えた。だが、フレイザーの承認論は、当初こそ多文化主義的な差異への配慮という再分配政策と緊張関係にある主張に力点を置いていたものの、「承認を再考する」(2000年)以降は、平等な道徳的主体としての地位の承認を重視する普遍主義的な「地位モデル」へと転回し、結果的に「社会的地位」をめぐる分配的正義論という性格を強め、ロールズ的な平等主義的リベラリズムとの距離を狭めることになった。

フレイザーの議論が「再分配だけでなく承認も」という二元論であったのに対し、ホネットの承認論は、ロールズのいう「背景的正義」の更に背後にある資本主義社会特有の価値体系(「基礎的で包括的な道徳カテゴリー」)として承認関係を捉え、分配的正義の問題をあくまでも「承認関係」を構成する「第三類型」(あるいは第二類型を含む)と位置づける(承認に特化した)壮大な「道徳理論的一元論」であり、そこから導き出されるのは、主体の日常的な不正義経験(「屈辱および尊敬の欠如という現象」)を起点としつつ、相互行為によって資本主義社会の承認規範を問い直すというつつましい提案であった。

このように、しばしば「再分配対承認」論争と呼ばれてはいるものの、フレイザーやホネットの承認論は、決してロールズ分配的正義論に対する一方的な批判ではなく、むしろそれを補い、深めるための議論であり、分配的正義論と承認論は、制度のあり方を根本的に問い直す作業と不正義に対する日常的な感覚の陶冶を両輪とする政治哲学という知的営為にとって、どちらも不可欠の知見であるというのが報告の結論であった。

紙幅の都合もあるので討論者からのコメントはそれぞれ一点ずつの紹介にとどめる。まず上原報告について、小田川からは、ポッゲの議論にはいわゆる国内類推(中央政府のある国内政治の議論を国際社会という無政府状態に類比的に適用すること)特有の困難が伴うのではないかという指摘があり、五野井氏からは、非遵守常態化の改善のためのグローバルなルールとして、財の一部移転を可能にしつつある国連ミレニアム開発目標など世界政治の現状の進展に引きつけて論じる必要があるのではないかという指摘があった。遠藤報告について、小田川からは、政治的平等と経済的平等(分配的正義)の内在的な繋がりは両者の現実的な結びつきを必ずしも担保しないのではないか(たとえばデモクラシーが所得格差などの経済的不平等を拡大する可能性はないのか)という指摘があり、五野井氏からは、ロールズの議論は、結局のところ先進諸国の圏域に内在的であり、それ以外の圏域では困難である可能性が高く、ゆえに国境を越えた社会的協働の適用範囲としては理論的な幅が狭くならざるをえないのではないかという指摘があった。山下報告について、小田川からは、報告では経済的正義論(再分配)と文化的正義論(承認)の収斂の可能性が示唆されていたが、フレイザーの当初の議論のように両者を切り離して論じることにも一定の理論的な強みがあるのではないかという指摘があり、五野井氏からは、ホネットのつつましい提案には、分配的正義と承認の政治だけではなく、トマス的な意味での交換的正義論にも通じる可能性が認められるのではないかという指摘がなされた。

三人の報告者が制限時間を守ったにも関わらず、司会の不手際のため、壇上での討論に想定外の時間を費やし、結果的にフロアの参加者の方々との討論のための時間を十分に確保することができなかった。フロアとの開かれた討論を重視するというセッションの趣旨からいえば、これは極めて遺憾なことであり、世話人・司会者として猛省する次第である。

その短い質疑応答の時間に、二人の会員から重要な質問とコメントを頂いたのでここに記しておきたい。まず横浜国立大学の有江大介会員からは、①上原報告で提示された「最小不幸国際社会」(この表現そのものは司会者が整理のために用いたものであるが)などの幾つかの議論は、ロールズが批判しているはずの功利主義の思想であるが、グローバル・ジャスティス論は功利主義に思想的に近いものと理解してよいかという質問と、②山下報告で(Samuel Fleischacker, A Short History of Distributive Justice, 2004 をもとに)整理された分配的正義の概念史には事実誤認があるのではないかというコメントを頂いた。また岡山大学の新村聡会員からは、①三人の報告者が分配的正義をどのようなものと捉えているのかが不明瞭であり、それぞれの定義を報告の冒頭で示すべきであったというコメントと、②現代日本における分配的正義をめぐる具体的な諸問題、たとえば必要原則と貢献原則の問題や、応益負担と応能負担の問題についての議論が皆無なのは残念であったというコメントを頂いた。時間的に応答は不可能であったが、今後の議論に繋げていきたい。

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どうだろうか、すこぶる面白いセッションであったことはうまく伝わっているだろうか。まとめを書きながら「このセッションが面白くなかったとかいう奴、爆発しろ」とかぶつぶつつぶやいてたんですが。

これ、報告者が報告を論文にしてたら、その書誌情報とか載せるべきだろうね。

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Monday, November 29, 2010

大久保健晴『近代日本の政治構想とオランダ』

明治大学の大久保健晴さんから『近代日本の政治構想とオランダ』(http://amzn.to/gtM6X6)を頂きました。ありがとうございます。労作とか力作という言葉はこの本のためにある言葉ですね。

この本の凄さは版元の目次で一目瞭然なのですが、流通的にどこでも立ち読みできる本ではないと思うので、「はしがき」の一部を紹介しておきます。

……周知のように、日本社会と西洋社会の邂逅、それ自体の起点は、ペリー来航から三〇〇年も以前、一六世紀のポルトガルとの南蛮貿易にまで遡ることができる。また江戸時代には、海禁政策(いわゆる「鎖国」体制)のもと、長崎・出島という「小さな窓」を媒介に、オランダとの交易・交流が行われていた。当然、その過程で西洋世界の文物に触れ、時に西洋人の姿を直接目の当たりにした者も、少なからずいた。そこから医学や天文学、薬学などの自然科学を中心としたオランダ学「蘭学」が勃興し、その成果は都市のみならず各地にも広範に伝播し、蓄積されていった。さらに徳川政権は『オランダ風説書』によって、海外情勢に関する情報を入手していた。実際、既に黒船来航の前年には、『別段風説書』を通じて、近々アメリカ使節が通商を求めて訪れるとの報せが、長崎オランダ商館長から伝えられていた。そして近代日本の黎明期、近世蘭学の伝統を背景に、西洋人文社会科学を積極的に受容する、その導き手となったのもまた、オランダからもたらされた法学や政治学、経済学の知識であった。

西洋法制度を巡る知識の受容は、老中水野忠邦のもと天保年間になされた、オランダ憲法や刑法、刑事訴訟法、民事訴訟法などの翻訳事業を端緒とする。ただしその作業はきわめて限定的なものであり、衆目に触れることもなかった。その後、ヨーロッパ法・政治・経済学の理解と普及を飛躍的に推し進めたのが、ペリー来航を機に設立された、蘭学の知識と伝統を基礎とする徳川政権の洋学機関・蕃書調所の学者達である。なかでもその画期と言えるのが、蕃書調所教授手伝並、西周と津田真道による文久二(一八六二)年オランダ留学であった。徳川政権初の欧州留学生としてオランダに派遣された二人は、二年間、彼の地においてライデン大学法学部教授、S・フィッセリングのもと、自然法から国際法、国法、経済学、統計学に至る五科講義を受ける。帰国後、徳川政権の命によってその講義筆記を訳述し、維新の後には明六社知識人として活躍した西と津田の政治思想的営為は、転形期日本における国家建設や学問思想の発展に多大な影響を及ぼした。しかし、西と津田が学んだフィッセリング五科講義をはじめ、徳川末期から明治初期にかけてオランダから窃取された学問知識の様態と意義について、従来の研究では基礎的史料調査を含め、ほとんど検討されていない。

本書は、以上の問題関心のもと、近世蘭学が辿り着いた一つの臨界点であり、西洋人文社会科学受容の起源である、オランダを通じた法学・政治学・経済学・統計学導入の特質と影響に光を当てながら、近代日本政治思想の生成と展開を描き出すことを主題とする。具体的には、留学を実現した西周、津田真道、同時代オランダを代表するローマ法学者の著作との取り組みを通じて民法や憲法に関する考察を深めた小野梓を中心に、福沢諭吉や中村正直、馬場辰猪、杉亨二、さらには陸奥宗光など、知識人や思想家、政治家や法制官僚達の学問的・政治的活動を取り上げる。

一九世紀後期日本において、近世蘭学を源流に、オランダからヨーロッパ人文社会科学が受容されるなかで、人々の関係性や共同性を巡る思惟はどう変容したのか。新しい法観念や権利思想との接触を通じて、儒学や国学など旧来の学問や政治文化、伝統的な語彙、思考に対して、いかに再検討が加えられたのか。そこから、どのような体制構想や政治社会像が生み出され、実際の政治過程に影響を与えたのか。そして近隣アジア世界に対して、いかなる眼差しが向けられていったのか。

開国を通じて西洋文明総体と対峙する文化接触の場に立ち戻り、大政奉還から明治維新を経て、明六社設立、国際法の伝播、日清修好条規の締結、自由民権運動、明治一四年の政変、さらには法典編纂、明治憲法体制の成立へと至る内政・外交の歴史的変遷を捉え直し、近代日本の学問的・政治的・精神的基礎が形作られていく過程を照射することが、本書の最終目的である。(i-iii頁)

日本政治思想史にかぎらず、思想史に関心のあるすべてのひとが紐解くべき大作だと思います。

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Sunday, November 07, 2010

書評候補作アンケートへの回答@2010

社会思想史学会では毎年この時期に来年度の年報で書評すべき本のアンケートを全会員を対象に行っている(その前提として会員用のメーリングリストがある)。ここ数年の『社会思想史研究』を見ればわかることだが、大変充実した書評欄なので、今年のアンケートでは以下の九冊を挙げることにした。「近年の収穫」的なメモということになるだろうか。

(1)川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』講談社、2009(amazon

(2)石川敬史『アメリカ連邦政府の思想的基礎』渓水社、2008(amazon

(3)井上弘貴『ジョン・デューイとアメリカの責任』木鐸社、2008(amazon

(4)クエンティン・スキナー『近代政治思想の基礎』春風社、2009(amazon

(5)森川輝一『〈始まり〉のアーレント――「出生」の思想の誕生』岩波書店、2010(amazon

(6)宮崎裕助『判断と崇高 カント美学のポリティクス』知泉書館 、2009(amazon

(7)田中均『ドイツ・ロマン主義美学 フリードリヒ・シュレーゲルにおける芸術と共同体』御茶の水書房、2010(amazon

(8)姫野順一『J.A.ホブスン 人間福祉の経済学―ニュー・リベラリズムの展開』昭和堂、2010(amazon

(9)倉科岳志『クローチェ 1866-1952』藤原書店、2010(amazon

他の会員の方々が何を挙げたか気になるところ。こういう情報はできれば共有したい。

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Thursday, September 30, 2010

齋藤純一編『公共性をめぐる政治思想』(2010)

齋藤純一先生と執筆者の皆様から『公共性をめぐる政治思想』(amazon)を頂きました。ありがとうございます。『公共性の政治理論』(版元amazon)が出たばかりですが、齋藤先生のお仕事ぶりには圧倒されるばかりです。

まえがきにあるように、「扱われている主な思想家は、A・スミス、I・カント、W・リップマン、A・グラムシ、H・アーレント、J・ハーバーマス、J・ロールズ、J・ポーコック、M・サンデル、C・テイラー、J・ドライゼク、J・ボーマンらであり、主題的に論じられている事柄は、道徳感情、公開性、公衆/群衆、公論/世論、ヘゲモニー、判断力、コミュニケーション的自由、公共的理性、トランスナショナルな公共性などである」と非常に幅広いというか、これだけいろんなことをやっている研究者が集っている早稲田の政経はやっぱりすごいなあと。

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井上彰「平等の価値」(2010)

井上彰君から「平等の価値」が収録された『思想』1038(2010年10月号)を頂いておりました。ありがとうございます。『社会思想史研究』34号(2010年、amazon)所収の査読論文「〈分析的平等論〉とロールズ」もそうですが、分析的アプローチというのがどういうものか大変よく分かる作品です。

精査する余裕がないのですが、ムアの「絶対的孤立化」の扱いが非常に興味深いです。

ぼくの理解では、G. E. Moore, Principia Ethica (1903) [http://fair-use.org/g-e-moore/principia-ethica/](邦訳)のポイントは、

①倫理学は、分析的な定義を拒む「善」(“being good”)の「内在的価値」についての「直観」を扱う思弁的な倫理学と、定義可能な「善いもの」(“doing good”)の手段的価値を因果論的に研究する倫理学の二つに区別される。(で、スキデルスキーによれば、後者を社会科学として批判的に継承したのがケインズ。)

②「絶対的孤立化」に基づく直観によれば、経験的な日常世界の因果論的連鎖に汚されることのない、純粋にして最高の「内在的価値」は、人間的交流と美しい対象の享受である。

の二点だと思うのですが、「絶対的孤立化」が〈究極的価値としての平等〉の基礎づけに用いられるとなると……むむむ。

「絶対的孤立化」は規範理論において有意性を持ちうるのか、これは非常に難しい問題です。不勉強故に、難しいとしか書けないのですが。

ちなみにムアとその周辺について昔やった報告(PDF)。これ論文にしなきゃいけないので、いずれちゃんとやるつもりです。

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ブログと twitter

やはり公私は分けた方がいいであろうというご忠告を頂いたので、とりあえず twitter の方はプライベートモードにして、比較的ちゃんと考えたことのメモは必ずブログに書こうかなと。

あと、頂いた論文とか本に対する御礼もこっちにちゃんと書こうと思っています。

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«イアン・シャピロ『民主主義理論の現在』についての書評