Thursday, August 07, 2014

三品理絵『草叢の迷宮 泉鏡花の文様的想像力』(ナカニシヤ出版、2014)

妻の単著が刊行された。タイトルは『草叢の迷宮:泉鏡花の文様的想像力』。泉鏡花の小説『草迷宮』についての博士論文と関連する論文を集めて編まれた論文集である。以下は配偶者によるささやかな販促の試み。

この本に何が書いてあるか、ひとことでいえば、泉鏡花は国木田独歩のそれとは全く別の「武蔵野」をみていたということである。河井酔茗の言葉を借りるならば、独歩のそれは「雑木林の武蔵野」で、鏡花がみていたのは「草の武蔵野」。図式的にいってしまえば、前者が世界を脱魔術化し、自然をありのままにみる写実主義者の武蔵野。そして後者は、自然の中に「文様」を見出し、「文様」の中に自然を見出すような幻想的・非写実主義的な「文様的想像力」で捉えられた武蔵野。「草の武蔵野」の具体的なイメージは本書のカヴァーに用いられている『武蔵野図屏風』――草叢の中に巨大な鞠のような月がごろん( https://twitter.com/odg1967/status/488516480569315328/ )――を御覧あれ。

鏡花の『草迷宮』は、冒頭に「杜若咲く八ツ橋」と「月の武蔵野」という近世に好んで描かれた二つの意匠が出てくるのだけども、そこに着目し、近代の自然主義が忘却した近世絵画の文様的自然観を鏡花が『草迷宮』において文様的想像力として再生し、彼独自のマニエリスム――この概念を使っていいのかわからんが宮下規久朗先生が副査として関わった博論なのでまあたぶん問題ないんだと思う――を確立したというのが本書第一部の概要。第二部では更に能楽の話も。全体として、伝統的な意匠を受容したことが、結果的に鏡花の作品にモダニズム的な特徴をもたらしたという洞察が述べられているような印象(まちがってたらすまん)。

本書全体の概要は序論と終章を立ち読みすれば容易に掴めると思う。『草迷宮』の詳細な梗概から始まり、内在的な分析(第一章)、近世絵画の意匠という観点からの分析(第二章)、文化史的な背景の分析(第三章)という組み立ての第一部は、ひょっとすると『草迷宮』研究入門として読めるかもしれない。本書ができたプロセスを知ってる者としては、修士課程の院生のレポートだった第一章から、第二章のブレイクスルー(まあ近世絵画との連関の発見はそう呼んでいいんじゃないかと)を経て、第三章の大風呂敷に至る流れはいま読み返しても大変スリリング(「大丈夫か?」的な意味で)である。第二部、第三部も面白いのだけども、まあそれは読んでからのお楽しみということで。

読後、読者が『草迷宮』を読むたびに本書のカヴァーを――タイトルの「草」に付された麗しいアホ毛と共に――想起せざるを得なくなれば、本書のもくろみは成功したということになるんだろうと思う。本書を読むと『草迷宮』に対する理解は根本的に変わるだろうし、二度と元に戻ることはない…………んじゃないかと期待したい。

家族としては、コピーとかお夜食作りとかそういえばいろいろ手伝ったよなーと恩着せがましいことも想起するのだけども、本書の完成が遅れたのは、肝心な時期に妻をわたしの実家の案件につきあわせてしまったからなので、ひたすら申し訳なく思わざるをえない。いろいろすまんかった。だけどおかげでなんとかのりきれた。こちらこそありがとう。

とはいえ、ついにできた、本が出た。家族としてはとても嬉しい。ひとりでも多くのひとが読んでくれると幸いである。

| | Comments (0)

Monday, March 10, 2014

mac 用エディタ mi のアウトライン・エディタ化

秀丸から mi への移行がなかなかうまくいかないので調査。

https://twitter.com/odg67/status/440697237576757248
https://twitter.com/odg67/status/440697398835159040
https://twitter.com/odg67/status/440709966773510144
https://twitter.com/odg67/status/440713835461107712
https://twitter.com/odg67/status/440713951072882688
https://twitter.com/Yonus_Mendox/status/440712123510181888
( http://www.sixnine.net/regexp/ )

一、mi を起動、「表示」「サブペインカラム表示切り替え」「情報ペインカラム表示切り替え」でサブペインだけ表示されるように設定。

二、環境設定→「タブ/ビュー」タブでの「ペインレイアウト」「サブペインカラム」で「ジャンプリスト」を選択。ほかは全部「なし」。で、「更新」。

三、モード設定→「見出し」タブで「見出し」として「章」○.*、「節」(.*、「§」§.*、「項目」□.*の四階層を登録。
#参考#
・これは四階層の見出しを設定し、第一階層「章」の見出しを「○で始まる行」(○.*)、第二階層「節」の見出しを「(で始まる行」((.*)、第三階層「セクション」の見出しを「§で始まる行」(§.*)、第四階層「項目」の見出しを「□で始まる行」(□.*)に設定したいから。節とセクションは語義的には同じではないのかとかツッコミはなしで。

四、「モード設定」→「表示」タブで「デフォルトでジャンプリストを表示」にしておくと快適。

これで、たとえば次のように入力すると、ちゃんと見出し(ジャンプリスト)が左側のサブペインカラムに表示される。(スクリーンショットを貼るべきなのだが、それは時間のあるときに。)

**********
○第1章 わたしの好きなもの
(1.1)たべもの
§1 甘いもの
□洋菓子
 ザッハトルテぺろぺろ

□和菓子
 羊羹mogmog

§2 辛いもの

(1.2)のみもの
§1 清涼飲料水

§2 アルコール飲料
□ビール

□蒸留水

○第2章 わたしの嫌いなもの

**********

しかし、秀丸のアウトラインのように見出し以下のテキストを「たたむ」ことはできませんなあ。うーん。

| | Comments (0)

Friday, February 14, 2014

映画『ハンナ・アーレント』を観てきました。

「われわれは思考する。われわれは考える存在だからだ」。――マルティン・ハイデガー

「ソクラテスやプラトン以来、わたしたちは「思考」を〈自分自身との静かな対話〉だと考えます。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。私は実際、この問題を哲学的に考えました。「思考の嵐」がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。わたしが望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。」――ハンナ・アーレント

「期待してたんだ、君に分別が残っていることをね。だが君は変わっていない。ハンナ、君は傲慢なひとだ。ユダヤのことを何もわかってない。だから裁判も哲学論文にしてしまう。……われわれを見下す傲慢なドイツ人と同じだ。きみは、われわれのことを大虐殺の共犯者と呼ぶのか? ドイツ人は君を裏切ったんだぞ。君も殺されてたかもしれない。移送の担当は君の親友アイヒマンだ。キャンプから逃亡してなかったら、残った女性と同じ運命に……。」――ハンス・ヨナス

「わたしは本書の副題について、それこそ本物の論争が起こってもよかったと思う。わたしが悪の陳腐さについて語るのはもっぱら厳密な事実の面において、裁判中誰もが目を背けることのできなかったある不思議な事実に触れているときである。アイヒマンはイヤーゴーでもマクベスでもなかった。しかも〈悪人になってみせよう〉というリチャード三世の決心ほど彼に無縁なものはなかったろう。自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何の動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。もちろん、彼は自分がその後釜になるために上役を暗殺することなどは決してしなかったろう。俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。まさにこの想像力の欠如のために、彼は数ヶ月にわたって警察で尋問にあたるドイツ系ユダヤ人と向き合って座り、自分の心の丈を打ち明け、自分がSS中佐の階級までしか昇進しなかった理由や出世しなかったのは自分のせいではないということをくりかえしくりかえし説明することができたのである。大体において彼は何が問題なのかをよく心得ており、法廷での最終陳述において、「〔ナツィ〕政府の命じた価値転換」について語っている。彼は愚かではなかった。完全な無思考性(sheer thoughtlessness)――これは愚かさとは決して同じではない――それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。死に直面した人間が、しかも絞首台の下で、これまでいつも葬式の際に聞いてきた言葉のほか何も考えられず、しかもその〈高貴な言葉〉に心を奪われて自分の死という現実をすっかり忘れてしまうなどというようなことは、なんとしてもそうざらにあることではない。このような現実離反と無思考性は、人間のうちにおそらくは潜んでいる悪の本能のすべてを挙げてかかったよりも猛威を逞しくすることがあるということ――これが事実イェルサレムにおいて学び得た教訓であった。」(『イェルサレムのアイヒマン』邦訳221-222頁)

「これからわたしがやろうとしているのは、わたしたちのもっとも新しい経験ともっとも現代的な不安を背景にして、人間の条件を再検討することである。これは明らかに思考が引き受ける仕事である。ところが無思考性――思慮の足りない不注意、絶望的な混乱、陳腐で空虚になった「複数の真理」の自己満足的な繰り返し――こそ、わたしたちの時代の明白な特徴のひとつであるように思われる。そこでわたしが企てているのは大変単純なことである。すなわち、それはわたしたちが行なっていることを考えること以上のものではない。」(『人間の条件』邦訳15-16頁)


先週末からのばたばたする流れの中でなんとか『ハンナ・アーレント』を観てきた。日本語版字幕がパンフに収録されていて便利。解説で奥平康弘さんが「ハイデガー、出てくる必要あったの?」(大意)みたいなこと書いてらっしゃるのだけど、わりと重要な場面だったんじゃないのかなと。

全体としては、アーレントよく頑張ったねというよりも、アーレントとヨナスの決別の物語という印象を。いかにも怪しげなハイデガーが繰り返し口にした「思考」という言葉を、アーレントもまた教壇で呪文のように繰り返す。それでヨナスは「結局彼女もあっち側のひとなのだ」と確信。

「ナチスのユダヤ人虐殺に、一部のユダヤ人指導者が荷担したという事実……。ハンナ、君は彼らがアイヒマンと同じく「思考」を放棄した「凡庸」な悪人だったというのかね?それを放棄した同胞を君はそんなに責めるのか?「思考」ってそんなにいいものなのかね?」

ヨナスが最後にハンナにぶつけた言葉は要するにそういうことなんだろうと思う。「俺はどうしてこんな言葉を親友にぶつけなきゃならないんだ」というヨナスの表情に、教壇でのアーレントの「思考」講義をひっくりかえすぐらいの重みを感じてしまった俺ガイル。

「アーレントばんざい!思考ばんざい!」という映画ではなかった。そして、そこがなんともいえない魅力であった。

細かいことをいえばハイデガーとアレントが共に口にする「思考は知識をもたらさない」は、ここでいう「思考」が、知識(エピステーメー)を求める形而上学や哲学とは根本的に違うということなんだろうと思う。

地方のミニシアターだったせいか、観客は少なく、そのほとんどはご高齢の方であった。しかしまあ、劇場で観れてよかった。ハンス・ヨナスのことをもっと知りたいと思った。

| | Comments (0)

Monday, February 25, 2013

犬塚元「震災後の政治学的・政治理論的課題 「不確実・不均衡なリスク」のなかの意思決定・連帯・共存の技法」

犬塚元さんから「震災後の政治学的・政治理論的課題 「不確実・不均衡なリスク」のなかの意思決定・連帯・共存の技法」 amzn.to/VroKzX bit.ly/TERsOV を頂きました。ありがとうございます。(稲葉馨・高田敏文編『今を生きる 東日本大震災から明日へ!復興と再生への提言〈3〉法と経済』所収)

「震災と原発事故」以後の「政治学的・政治理論的課題」を(一)「意思決定」(だれがきめるのか:民主政治における専門家と市民)、(二)「連帯」(なぜ、どこまで連帯するか:「リスク負担の不均衡」のなかの公的支援)、(三)「共存の技法」(分極化した対立をどうするか)という三つに整理。

(一)に関しては、原発事故の後に改めて問われることになった「民主政治の意思決定において専門知や科学の果たすべき役割とはなにか」「専門家の民主的統制は必要か・可能か」という「原理的な問い」が検討されています。ポイントは「専門知の民主化」と「民主制の専門化」をどう接合するか。

「専門知の民主化」というのは専門家・官僚の側の課題、「民主制の専門化」というのは一般市民の側の課題。ただ、後者をあまり強調すると、「原発問題について不勉強な奴は、この問題について発言するな」という理屈になりそうなので、おそらく前者の課題の方が重要なのかなと個人的には考えております。

あと紙幅のためか、震災復興政策についての意思決定の問題は省かれているようです。あと「だれがどのように決めるのか」という問題については、「専門知・科学」と「民意」という区分のほかに、「中央」と「地方」と「地域」という区分もあるのでしょうね。複数の次元でのデモクラシーの対立。エネルギー政策や震災復興政策の決定において、中央のデモクラシーと地方のデモクラシーが対立した場合、どう考えたらいいのか。

(二)では「苦境に陥った地域や個人に対して、「われわれ」は政治共同体としてどう対応すべきか」「震災と原発事故ののち、退去命令、高台移転、土地買い上げ、食品流通規制、除染などをめぐって「国が実施すべき」という言説が溢れたが、どのような原理がそうした国の活動を正当化するのか」問題が。

もちろん重要なのは「連帯や相互扶助をめぐる言説」が主に「思いやり」や「絆」といった精神主義的な道徳の言説に依拠して展開されたことについての批判的な検討。

(三)では(政治における「対立」の重要性を認めつつも)震災以後、政治対立が「分極化」し、「すべてが「味方か敵か」という単純な対立構図の中に整理されてしま」い、「複雑な事象が不適切に単純化されたり、多様な争点や対立軸が隠蔽されたりする」危険性について検討がなされています。

この政治対立をどう「穏健化・相対化」するか。第一の希望は「熟議デモクラシー」論に代表される「民主政治のバージョンアップ」。第二の可能性は「対立する主張をいずれにも与さずに冷徹に吟味してそれらの限界を定めるヒューム=クリティーク型の知性の営み」による政治対立の吟味と穏和化。

場合によっては「ヒューム=クリティーク型の知性の営み」こそが政治対立を分極化する可能性もあるだろうし、批判的に言及されている「特定の主張や政策を根拠・権威づけるプラトン=オーソライズ型の学問」の方が分極化を抑制し、合意をもたらすこともあるんじゃないかと思わなくもないですが…。

いずれにしても「震災と原発事故」以後の「政治学的・政治理論的課題」についていまのところこれ以上的確な整理はないと思うので、是非とも入手しておいた方がいいでしょう。>「震災後の政治学的・政治理論的課題」

| | Comments (0)

Monday, January 28, 2013

『政治的ロマン主義』

サルベージもこれで最後。といっても、こちらにまとめたノートをもとに書いたので、おさらいという感じの雑文。

1997 みすず書房 カール シュミット, Carl Schmitt, 大久保 和郎

何にも縛られることなく、全てを自分自身で決断できる主体。シュミットが政治的ロマン主義の核心に見いだしたものは、この絶対的に自由なる「私的な司祭」であった。だがその自由は、社会が一切の紐帯を失って、ばらばらに砕け散った廃墟においてひとびとがたどり着かざるをえなかった、哀しき〈自由〉であったとシュミットはいう。

「個人主義的に解体された社会においてのみ、〔ロマン主義者という〕美的生産の主体は精神的中心を自分自身のうちに置くことができる。個人を精神的なもののなかに隔離し、自分自身しか頼るものがないようにさせ、普通ならば一つの社会秩序のなかでヒエラルヒーに応じてさまざまの機能に分けられていた重荷を個人の肩にすべて担わせてしまう市民的な世界においてのみそれは可能なのだ。この社会においては私的な個人が自分自身の司祭になればいいのである。いや、それだけではなく、宗教的なものの持つ枢要な意味と帰結によって、司祭である以上また自分自身の詩人、自分自身の哲学者、自分自身の王、自分の人格の聖堂を建てる建築家であることもできるのだ。私的な司祭ということのなかにロマン主義とロマン主義的諸現象の究極の根底がある」。

夢想の世界にひたるロマン主義者の姿は、一見、実に安易なものに見えるかもしれない。しかし、シュミットによれば、その背景に隠れているのは、ほとんど救いようのない〈絶望〉にほかならない。

「このような観点のもとに事態を観察するならば、常に善良な牧歌詩人のみを見ているわけには行かない。ロマン主義がこころよい月夜のなかで神と世界に抒情的に陶酔していようと、世界苦と世紀の痼疾として悲嘆の声を上げ、ペシミスティックに我と我が身を引き裂き、あるいはまた熱狂的に本能と生の深淵に落ち込もうと、ロマン主義運動の背後にある絶望をも見なければならない。引歪んだ顔で多彩なロマン主義のヴェールの向こうからこちらをみつめている三人の人間、バイロン、ボードレール、ニーチェを人は見なければならない。私的司祭制の司祭長であると同時に犠牲でもあったこの三人を」。

「政治的ロマン主義」の是非など、ほとんどどうでもいい話であるが、この本は、あらゆる〈理由〉が崩壊した後に生きる者が、自らの置かれた状況を理解する上で、まちがいなく必読の書であると思う。

| | Comments (0)

『30年代の危機と哲学』

これも某所のやつをサルベージ。

1999 平凡社 E. フッサール, M. ホルクハイマー, M. ハイデッガー, Edmund Husserl, Max Horkheimer, Martin Heidegger, 清水 多吉, 手川 誠士郎

30年代のドイツにおける思想史的に極めて重要な文章の翻訳を集め、解説を付したもの。ハンディでありながら、その毒は相当強い。

まず一方には、1935年5月のフッサールの講演「ヨーロッパ的人間性の危機と哲学」がある。フッサールは近代においてヨーロッパが陥った危機を、ヨーロッパ的な理性が、その本来の道を踏み外し、「外面的」な「自然主義」と「客観主義」へと堕落したことにあると論じ、そこから発生した非本来的な「合理主義」と非合理主義の対立を超えて、本来の――古き善き――合理主義に回帰することこそが、「危機」を克服する唯一の方途であることを高らかにうたいあげる。

「ヨーロッパ的人間存在の危機には、二つの出口があるだけです。つまり、本来の合理的生の意味に背いたヨーロッパの没落、精神に敵対する野蛮さへの転落か、それとも、自然主義を終局的に乗り越えんとする理性のヒロイズムを通した、哲学の精神によるヨーロッパの再生か。……もしわれわれが、「善きヨーロッパ人」として」、無限に続く闘いにも挫けぬ勇気を持ち、諸々の危機のなかでも最も重大なこの危機に立ち向かうならば、人間を絶滅させる不信という炎のなかから、西欧の人間の氏名への絶望というくすぶり続ける火のなかから、……新しい生の内面性と精神性とをもったフェニックスが、遠大な人類の未来の保証として、立ち現れてくるでしょう」(94-95頁)。

どれほどひとびとが合理主義に愛想を尽かし、非合理な野蛮さに魅せられようとも、「理性のヒロイズム」はわれわれを古き善き合理主義へと引き戻し、ヨーロッパは甦るであろう。「何故なら、精神のみが不滅なのですから」とフッサールはいう。

だが、そのようなフッサールの絶叫を踏みつぶすかのごとく、ハイデッガー総長は1933年5月の講演「ドイツ的大学の自己主張」において、アイスキュロスの言葉「技術というのは、必然のさだめに比すれば、はるかに力が弱いものだ」を次のようにパラフレーズする。

「〈知はしかし必然よりはるかに無力である。〉そのいわんとするところは、――事物についてのいずれの知も、まずは命運の強大さにゆだねられているものであって、この強大さのまえでは言葉を失ってしまうということである」(106頁)。

敢えて「理性のヒロイズム」に賭けようとするフッサールに対し、ハイデッガーは強大な「必然のさだめ」の側に身を委ねる。この両者の立ち位置をどう解すればいいのか――本書を読む者は、この厄介な問いを媒介として、「危機」論争へと召還され、当事者の一人として内省を強いられることとなろう。

| | Comments (0)

三原順『はみだしっ子』白水社文庫版についての覚書

某所をそろそろ引き上げようと思うので、懐かしいものをサルベージ。白水社文庫版『はみだしっ子』の各巻についてのレビュー。一応、自分なりのコメンタリーのつもりで書いたもの。

ネタバレ連発ですので、ご注意。

○第1巻

後に三原順本人が「オクトパス・ガーデン」という総集編を描いているものの、読みかえしてみると、むしろ作品全体のエッセンスが含まれているのは、第一話「われらはみだしっ子」であるように思う。

どういえばいいのかわからないのだけど、この作品は基本的に収拾がつかない主題を描いたものだと思う。第一話では、その収拾のつかない問いが提示される。

ほぼ二十年ぶりに最終話まで読み返してみると、その収拾のつかない堂々巡りの中で、もっとも前に進んでいるのはサーニンであったことに気づく。

四人とも、それぞれに成長していくのだけれど、どうしてサーニンはあんなに先まで進めたのだろう。口べたなのに、問題の核心に一直線で飛び込む絶妙の感覚を持っている。今いちばん気になるキャラクターである。

○第2巻

この作品全体を理解する上で最も重要なエピソード「山の上に吹く風は」が収められている。以後の物語は全てこの「山の上に吹く風は」を受けているので、慎重に読まなければならない。

「はみだしっ子」として生きるということも、決断を伴った一つの選択であり、世に対する一つの関わり方だということを思い知らされる。他人のごたごたに巻き込まれるし、他人をごたごたに巻き込んでしまう。その中で、ひとは傷つけられるだけでなく、どうしようもなく他人を傷つけてしまう。

三原順さんは、予め以後の展開の論理のようなものを考えた上で「山の上に吹く風は」を描いたのだろうか(だとすれば、三原さんの恐るべき構成の力に感服)。

それとも「山の上に吹く風は」を描いてから、それを受けるかたちで、あのような展開が事後的に生まれたのだろうか(だとすれば、三原さん以上に、物語そのものの恐るべき力と四人のキャラクターとしてのリアリティに感服)。

とにもかくにも、重要な巻であると思う。

○第3巻

第2巻後半、第3巻、第4巻前半と、しばらくの間(第11~16部)、「山の上に吹く風は」(第2巻)でばらばらになった四人が、それぞれにどのように成長し、復帰するかという話が続く。「奴らが消えた夜」はマックスを、「裏切り者」はサーニンを、「バイバイ行進曲」はグレアムを、「もうなにも…」はアンジーを、それぞれに主人公とした物語。まだ幼いマックスとサーニンについては、その自己形成が詳細に描かれ、特にサーニンについては「カッコーの鳴く森」という極めて重要な物語が語られる。

まず「奴らが消えた夜」(前半は第2巻に収録)では、マックスが引き取られていた孤児院から戻る過程が描かれる。グレアムに似たブラッド、ひどく雄弁なグレアム。この二人といろんな話をしながら全く別のキャラクターとして成長するマックスの姿を描く「奴らが消えた夜」は、この作品の中ではかなり例外的に美しいハッピーエンドとなっている。

続く「裏切者」では、「裏切者」の血を引く競走馬エルバージュとの出会いを中心にサーニンの成長と復帰が描かれ、「窓のとおく」と「バイバイ行進曲」ではグレアム父子の和解と死別が描かれる。(「窓のとおく」の父子譚は明らかに「バイバイ行進曲」への伏線であるが、どういう伏線であるかといえば、読みの分かれるところだと思う。)

もしも『はみだしっ子』が親に愛されなかった子どもたちの話であったとすれば、「バイバイ行進曲」で父と和解し、角膜移植によって右目の視力を取り戻したグレアムは、ここで旅を終えたといってもいいだろう。しかし、グレアムは既に別の問題を抱え込んでしまっており、以前にもまして、残りの三人に対して保護者として振る舞うようになる。自分こそは、三人にとっての、よき「親」でなければならないという強迫観念に突き動かされているかの如く。

そしてそのことが、グレアムと他の三人との間の決定的な壁をつくることになっているような気がするのだが、この印象を確かめるためには、第17部「クリスマスローズの咲く頃」(第4巻所収)に始まる、とてつもなく陰鬱なグレアムの物語につきあわなければならない。

第2・3巻は一つのまとまりをなしているので、この二冊を繰り返し読むという楽しみ方は十分に可能であるし、第17部以降を読まないで、第2・3巻だけを――番外編「線路の夜」で終わる前向きな――物語として読むことで得られるものも少なくないと思う。

とはいえ、やはり読者は読めば読むほどこの四人の話をもっとたくさん読みたいと思うのではないだろうか。

しかしこの先を読むと、おそらく第6巻まで読んでしまうことになるのではないかと思う。

○第4巻

第4巻の本編は、サーニンとマーシア(クークー)の恋物語である第15部「カッコーの鳴く森」で始まる。『はみだしっ子』の中から一話だけ取り出して読みたいという人には、サーニンの "noble savage" としての面目躍如たる、この第15部を薦めたい。個人的には、是非ともアニメ化(実写化)して欲しいエピソードである。森での様々な音の中で、マーシアが言葉を取り戻し、朦朧となって濁流の中で溺れかけていたサーニンの意識を呼び戻す様を、是非とも音声で聴いてみたい。

続いて、クレーマー家への養子話をめぐるグレアムの苦悩と、アンジーの母との訣別が描かれる第16部「もう何も…」。自らの女装癖について「オレは……ママになって、オレはオレを生みなおすの!」と述懐するアンジー……。アンジーのキャラクターは続く第17部「クリスマスローズの咲く頃」でも炸裂し、第18部「ブルーカラー」以降のグレアムとジャックを中心としたクレーマー家編のメイン・ストーリーの序曲となっている。第19部以降はグレアムを中心に展開されることになるが、アンジーのキャラは第6巻所収の番外編で――ロナルドというキャラクターと共に――再び息を吹き返す。

第17部「クリスマスローズの咲く頃」では、様々な苦悩を抱えつつも、クレーマー夫妻(ジャックとパム)の下で、あたたかで幸せな日常を過ごす四人の姿が描かれる。しかし、そうした日々の暮らしの中で自分の過去を忘れ、あたたかな日常の中に埋没する自分を許すことができないグレアムは、「グッバイ・ブルーカラー」と心の中で叫び、クレーマー家での幸福な生活に背を向け、「あの雪山での事」に決着をつけることを決意する(第4巻368-369頁)。

実をいえば、評者は、いまだにここでグレアムが「ブルーカラー」という言葉で何をいいたいのかよく分からないでいる。なんじゃそれはと批判されることを覚悟していえば、日常的な幸福に埋没している現存在の非本来的なありよう、すなわちハイデッガーが「世人」と呼んだもの(『存在と時間』第27節参照)に近いのものではないかと私は理解している。あるいは「ブルーカラー」という言葉には、もっと適当な意味があるのかもしれないのだが。

ただ、日常的な幸福に埋没する自分を許さず、自分の過去に対する倫理的な責任に原理主義に拘ってしまう辺りが、グレアムの弱さでもあるように感じられる。サーニンやマックスのように、世界をありのままに受け入れることが、なぜグレアムにはできないのだろうか。(アニメ版『のだめ』のラストにあったように、ひとは、「新しい出会い」を通じて、「心を縛る記憶」から自らを解放することだってできるはずではないだろうか。)

無論、それがグレアムの魅力であるということも確かではあるのだが……。

さて、残るは700頁近くある第19部「つれて行って」。第4巻までを読んでいなければ、ほとんど何のことかわからないであろう700頁である。

○第5巻

グレアムは第18部「ブルーカラー」(第5巻所収)の最後でクレーマー家での幸せな日常と訣別する意志を固めた。いかなる状況の下でも、マックス、サーニン、アンジーの三人を苦悩のどん底から救ったエゴイズム――いかなる条件の下であろうとも、好きな人には側にいて欲しい、あるいは好きな人の側にいたいという「自己本位」の欲望――を、残念ながら、グレアムは受けいれることができない。幼児期に「人の心を持たぬ者」と罵られたトラウマで、自分には「自己本位」を求める資格などないという確信を持ってしまっているからである。(あるいは、いつかきっと「おまえは「人の心を持たぬ者」ではない」という承認を与えられるのではないかという期待ぐらいは持っているのかもしれないが……。)そして、そうした「自分には幸福になる資格がない」という強迫観念は、グレアムをして、雪山で遭難した際にギィ・サリバンの射殺に関わったという「事実」――実際にはグレアムを絞殺しようとしたギィ・サリバンを、半睡状態のマックスが射殺したという事実――に対する倫理的責任へと向かわしめる。つまり、グレアムは、ギィの義妹フェル・ブラウンに自分を殺させることで、雪山でのギィの射殺という事件に〈倫理的〉に――〈法的〉にではなく――決着をつけるという最終計画を実行に移し始めるのである。

だが、グレアムは、自ら死を選択する前に、まだ幼いマックスとサーニンの将来を脅かす幾つかの陰を取り払う必要があった。マックスは、ジャックやパムの下で、うまく養子として暮らしていけるだろうか(ただ、実はサリーという家政婦がマックスの最強の味方になっている――第5巻142頁参照)。サーニンは、エルバージュの件を乗り越えられるだろうか、また、マーシア(クークー)の死を知ったとき、それをうまく受けいれられるだろうか……。マックスの将来への心配、サーニンの今後への不安。グレアムの最終計画の遂行を、この二つの懸案事項が攪乱するかたちで、最終楽章たる「つれて行って」の700頁は進行する。

第5巻を構成しているのは、クレーマー家の一員として着実に自己形成するマックスが、不良少年リッチーとのトラブルに巻き込まれ、グレアムがリッチーに腹部をナイフで刺されてしまうという事件と、それをめぐる裁判での悪徳弁護士フランクファーターとの対決、更には裁判で劣勢におかれたグレアム陣営の起死回生の策略の三つである。(マーシアの件、エルバージュの件もそれなりに進行するが、サーニンについていえば第5巻では何も問題は解決しない。)

第5巻に限定して、見どころをあげるとすれば、グレアムとアンジーとのすれ違いと、もう一つ、マックスの保護者としての、グレアムとジャックの違いということになるだろうか。特に後者は非常に興味深く、例えば、トラブルを抱えたマックスに対し、グレアムがこっそりと調査した上で自らトラブルシューターとして問題解決にあたろうとするのに対し、ジャックは、マックスを、そのようなトラブルに自ら対応できるような大人に成長させようと教育に努める(グレアムのような接し方では、残念ながら、マックスは成長しないだろう)。

結局、話の中ではグレアムの対応の方が問題解決において効力を発揮しているが、これはやはりどこかに無理を発生させずにはおかないように思う。そして果たせるかな、グレアム式トラブルシューティングは、グレアム自身の中に解消できない緊張とストレスをもたらすことになる。苦悩を一人で抱え込んだグレアムは、一方でカート・ヴォネガットを読むという憂鬱状態と、他方でバー「トリスタン」での深夜の熱狂的なピアノ演奏という躁状態の間で引き裂かれることになる。

第5巻の結末は策略の成功であり、おそらくそれは勝訴をもたらすであろう。しかし問題は何も解決していない。そのことを知るために、読者は続く第6巻を繙かなければならない。

○第6巻

第6巻は、グレアムの策略が成功し、裁判でリッチー側が敗北するところから始まる。フランクファーターとの対決を通じ、法的判断と倫理的判断(「法と道徳」と言い換えた方が学問的には厳密であるが)についての子供らしからぬ考察を展開した後、グレアムは、自らの倫理的原理主義(ギィ・サリバンが殺されたことに対する倫理的責任を全うすべく、ギィの義妹フェル・ブラウンの前で自分の命を絶つこと)への確信を強めていく。

計画の遂行。しかし肝心のフェル・ブラウンは「あなたの血なんか欲しくない!」とグレアムの提案を拒み、「自由になって」という言葉を残して去っていく。だが、フェル・ブラウンに対する〈自死による贖罪〉に自分の全てを賭けてきたグレアムは、ただ途方に暮れるしかない。

「あなたに私の目をあげる」と叔母に自殺された経験や、長年にわたって「二十歳になったら父を殺そう」という想いを支えに旅をしてきたグレアムにとって、人間の最も深い意味でのコミュニケーションは、ひょっとすると常に〈命のやりとり〉を伴うものであったのかもしれない。深いコミュニケーションにはつねに何らかの倫理的責任が伴うという考え方に拘泥する余り、グレアムは、サーニンがマーシアとの間で交わしたような、もっと別のコミュニケーションの可能性もありえたということを、結局のところ、理解できなかったのではないだろうか。(たとえばグレアムがアンジーに真剣に何かを相談できなかった一つの理由はそこにあるように私は思う。アンジーとのおしゃべりを自分の心の支えにするということを、グレアムは自分に許すことができなかったのであろう。――何と可哀想なアンジー!)

途方に暮れ、とりあえず自死の場所を探し回る途中で、グレアムはサーニンに電話でマーシアの死の真相についてヒントを与える。そこにアンジーが追いつき、グレアムに「雪山の事件」の際の拳銃を突きつける。「おまえが帰らないならオレがおまえを殺してやる!こいつで!」。

一説によれば、当初予定されていた結末は、海岸でアンジーがグレアムに発砲する場面で、その先は読者の想像に任せるというものだったらしく、しかしながらそれではあんまりだという編集部の意向で修正が行なわれたのだとか。もしもそれが真実であるとすれば、白泉社文庫版第6巻222頁以降は三原順の当初の意図に反して描かれたということになるのかもしれない。ただ、たとえそうであったとしても、修正したのもまた三原順であったということも読者は考慮しなければならない。いずれにしても、われわれの手元には、発表されたものしか残っていないのである。

その222頁以降において、グレアムはジャックに連れ戻され、無気力な日々を過ごす。そして、グレアムから自死の機会を奪ってしまったことで罪悪感に苛まれるアンジー。そしてあの結末……。これをどう読んでいいか、正直なところ、いまだによくわからない。

ただ、そこにおいてサーニンがマーシアの死の真相を知り、また世界そのものと和解する姿が描かれていることが何よりの救いである。「ボクには何かを無意味だと信じる事の方がよほど難しいよ。それが何かはわからないけど…でもきっと何か目的があるんだよ! ねェ違う? グレアム」というサーニンの言葉が、うまくいけばグレアムに届くかもしれないということを祈りながら。

中二から高三にかけて、この漫画ばかり読んでいたような記憶があって、当時はもちろん白水社の(文庫版でない)コミックスで読んだのだけど、その後、処分してしまって長らく読んでおりませんでした。五年か六年ほど前に文庫本で買い揃え、久しぶりに通読した際に、この機会に自分の読んだ諸々を文章に封じ込め、しばらく三原順作品から離れようと思って書いたのがこの雑文。

まあ、本当に誰得って感じなのですが、本人はこれを書いていろいろ落ち着いたので、なんとなくの想い出として。

| | Comments (0)

Sunday, January 20, 2013

註の欠落について(市野川・宇城編『社会的なもののために』)

参加した座談をまとめたものが近々刊行されます。公式には1月21日発売ですが、ひょっとするとそろそろ書店に並ぶかも知れません。

市野川容孝・宇城輝人編『社会的なもののために』(ナカニシヤ出版、2013年1月21日発売予定)
○公式 http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=918
○amazon http://amzn.to/109v1yF

座談における小田川の発言について、一カ所、かなり重要な脚注が欠落しています。具体的には267頁の "吉野作造における「社会の発見」" の部分。ここに次の脚注を追加しておいて頂けるとありがたいです。

飯田泰三『批判精神の航跡 近代日本精神史の一稜線』(筑摩書房、1997)第七章を参照。

言うまでもなく、飯田泰三さんの有名な御論文「吉野作造 "ナショナル・デモクラット" と「社会の発見」」小松茂夫・田中浩編『日本の国家思想』下、青木書店、1980の再録です。

日本思想史における「社会的なもの」を考える上で非常に重要な文献でもありますので、是非とも記載しようと考えていたのですが、うっかり失念しておりました。

| | Comments (0)

Sunday, August 19, 2012

田崎英明『無能な者たちの共同体』(未来社、2007年)

昔作った抜粋が出てきたのでご紹介。諸々のことで忙しかった時期に慌てて作ったメモらしく、頁は記されておりませんでした。御本の方はちゃんと購入して手元にあるはずなので、いずれ確認します。

田崎さんのこの御本では「有能な者たちの共同体」である「社会」に、「無能な者たちの共同体」である「政治」が対置されるわけですが(もちろんアーレントを「使って」ます)、この「無能な者たちの共同体」を大胆に掘り下げているところがこの本の魅力です。まずは「有能な者たちの……社会」についての分析。

この社会の中で、人は誰も一定のポジションを占めて生きている。日本人、男、教師、異性愛者、あるいは、移民、失業者、共産主義者、等々。私たちは、ただ単に、あるポジションを占めているばかりではない。たいていの場合、自ら執着しているのであれ、強いられてであれ、そのポジションを――一定の期間――占めつづける。個人は、ポジションへと繋縛される。それは、何がしかの命令に従属することを意味している。その命令に従いうるかぎりで、そのポジションを維持しつづけられる。それに従いえなくなったとき、人はそのポジションを失うだろう。そして、そのポジションには別の人間がやってくる。

社会はこのようにして再生産される。社会は、個人に対して、あるポジションを占めるように、自分の命令に従うようにと呼びかける。どの個人も、一定の期間しか一つのポジションを占めることはできない。どれほど長くても、その誕生と死によってその期間は区切られる。誰か特定の個人によって永遠に占有されるポジションというものはない。

社会とは、このようなポジションの集合体ないしネットワークであるといえるだろう。ポジションは疲れをしらず、それどころか誕生も死もしらない。そのポジションを占める個人の交替、生と死を超えて、ポジションは存続し続ける。このような疲れをしらぬ存在、消え去ることのない存在と自らを同一化させること、これが今日の社会に生きる私たちに課せられた定言命法ではないだろうか。

……社会的な生は、命令という言語行為によって他のポジションと結ばれたポジションの生にほかならない。あるポジションを占めるということは、他のポジションに対して命令せよという命令に従属することである。命令への命令抜きのポジションなど存在しない。たとえば、教師というポジションを占めるということは、「私を教師として受け入れよ」と他のポジション、つまり、学生やその親たちに受け入れさせることを含んでいる。もちろん、自分のポジションが含意している命令のすべてに自覚的であることはできないし、それどころか、自分が占めているポジションがいったい何なのかもふつうは、まずわからない。
どうすればそのような「社会」から逃れることができるのか。いわゆる「コモディティ化」をどうすれば拒むことができるのか。ポジションを放棄(喪失)することでしか、ひとは「社会」から逃れられない。
私たちは、この社会で一定のポジションを占めるかぎりで、つまり、何者か what, something であるかぎりで、他人と交換可能なのである。そうであるとするなら、私たちがもっとも個別的であるのは、むしろ、何者でもないときなのではないだろうか。私たちが何者でもなくなったとき、そのとき、私たちは誰とも交換できない生を生きている。

私たちがポジションを失うのはどのようなときだろうか。ポジションの命令に従えなくなるのは、それは、たとえば、疲れをしらないポジションについていけなくなるとき、疲労の極みにおいてである。疲れ果て、眠りに落ちていくとき、私たちは自分のポジションからずり落ちそうになる。定められた就寝時刻に従い、あてがわれた――ふかふかの、あるいは、こちこちの――ベッドでの眠りなら、それはむしろ、疲労する身体の否定であり、労働者としての明日の労働のためポジションが命じる命令に従っているともいえようが、作業の途中で不意に襲ってくる眠気は、個人とそのポジションのあいだの裂け目を示している。ポジションと区別される個人が初めてそのとき顔を覗かせるのである。
「コモディティ」として「社会」に組み込まれる「自我」と、それを拒む「自己」。両者を区別することで、田崎さんは「無能な者たちの共同体」の始まりについて次のように述べています。
自我ないし「私」というのは、このようなポジションを引き受ける、遂行性のエージェンシーなのだ。それに対して、自己というのは、遂行性から脱落していく存在、いや、むしろ、遂行性からの脱落そのものだというべきだろう。遂行性からの脱落そのもの、それは、享受であり、社会的な自我とは別の生、つまり、自己なのである。そして、それが疲労なのだ。

社会が自我によって構成されるのだとしたら、共同体は自己によって構成される、といっていいのではないか。そうだとすると、社会が命令の伝達によって形成されているのに対して、共同体を形成するものは何なのだろうか。自己と自己とは何をコミュニケートし、何を共有しているというのか。おそらく、共同体においては、人々が自我から自己へと落ちていくことが共有されるのである。何もできないということが、何者でもないということが、伝達されていく。

したがって、共同体の始まる場所は、社会から誰かが脱落していくところである。たとえば、個人があらゆるポジションから脱落していく、「死にゆくこと」がそうである。死にゆく者を前にして、人々には何ができるというのだろう。もちろん、それぞれのポジションで最善を尽くす人々がいる。医者、友人、家族、それぞれのポジションから、できること、しなければならないことを可能なかぎり行おうとするだろう。しかし、死にゆくことそのものに対しては、誰も、何もできない。社会は、死にゆく者に対して、さらには、すでに死んでしまった者に対してさえ、何ごとかを為すように、私たち、生き残る者に命じる。だが、私たちは、最終的には、何もできないのだ。死にゆく者から死を取り除いてやることなどできないし、また、すでに死んでしまった者に対しても、社会的に取り決められた儀式によって本当にその怒りや恨みを鎮めてやれるかどうかもわからない。

私たちは、そのとき、最終的に社会の命令に従いえなくなる。何かをせよ、といわれても、それは不可能なのだから。まさに、そこから共同体が始まる。
そして、この「共同体」をめぐる決定的に重要な一節。
社会は互いに命じ合い、貢献し合う者たちによって作られる。互いの貢献を持ちより、交換することによって社会は維持される。

いま、私たちの社会は、確実に、一定数の人間を見捨てつつある。私たちの社会は、それへの帰属をますます交換の能力へと絞り込んでいるように思われる。つまり、その成員が互いに交換しつづけられるかぎりにおいて、交換せよという命令に従いうるかぎりにおいて、社会への帰属が認められる。交換しつづけられなくなったら、死へと打ち捨てられるのである。

それにしても、死にゆくことは、どこで起こるのか。それは場所を必要とする。死にゆく者は、誰かに受け入れられ、看取られなければならない。そのための場所が必要だ。その場所は誰が取っておくのだろう。誰が死にゆく者を迎えいれるのだろう。死にゆく者が身を横たえるための地面、暖かさ、渇きを癒す水、呼吸のための空気。それらの場所を死にゆく者のために譲る者がいなければならない。死にゆく者がその中に身を沈めるためのエレメントであり、そこで、死にゆくことが自己自身を享受する。床をしつらえ、火を焚き、水を汲み、風を入れる。このように誰かによって場所が用意されることで、誰か他人に身を委ねることで、辛うじて死にゆくことはこの世に現れる。人が生まれるときと同様、死にゆくときも、無力であり、誰かが傍らにいなければならない。

おそらく、私たちの社会が死者から奪いつつあるものは、このような死にゆくこと、自己の享受としての死である。死者が死にゆくために必要なエレメントを奪ってしまったのである。ある死者は熱を奪われ、寒さの中に放置され、別の死者は風と水を奪われ、あるいは、横たわるための地面を奪われる。しかし、それでも死者たちは自らの死を死なねばならず、死にゆくことを享受するためのエレメントを奪われ、それを差し出してくれる他者を奪われたとしても、どれほど僅かであっても、それを自らのものとする。つまり、自己となる。自己であることとは、今日、抵抗の核心を構成するものなのである。

共同体とは、したがって、抵抗の伝達、ほとんどその感染というべきものである。私たちは、社会の周縁にいる者たちを見捨てた廉で告発されている。いいかえるならば、共同体に参加しなかったという罪科で。私たちは社会の一員であろうとして、つまり、有能な、遂行的な自我としての同一性に執着して、自らの疲労を、老化を、死にゆくことを否認する。自己の享受を否定するのである。
(田崎英明『無能な者たちの共同体』未来社、2007年)
どうも心理的に不安定な時期に作ったメモのようなので、もう少し余裕ができたらちゃんと細かく吟味したいと思います。

| | Comments (0)

Friday, July 27, 2012

川名雄一郎『社会体の生理学 J・S・ミルと商業社会の科学』(2012)

京都大学の川名雄一郎君から『社会体の生理学 J・S・ミルと商業社会の科学』 http://amzn.to/LRZ0Jr を頂きました。ありがとうございます。勉強させて頂きます。

まだちゃんと読んでないのですが、大変印象に残った一節をメモ。

本書の目的は、ジョン・スチュアート・ミルの1820年代末から1840年代末までの知的活動を、この時期に彫琢されていった彼の現代社会観とそれを科学的認識に高めようとした彼の試みに着目して描き出すことである。別の言い方をすれば、野心的な道徳科学体系を構築しようという彼の意欲をたどることによって、「社会の科学者としてのミル」を歴史的に再構成することである。……

……これまでのミル研究においては、第三の時期、とりわけそのなかでもしばしば成熟期とも呼ばれる1850年代以降に執筆・公表された『自由論』(1859年)、『代議政治論』(1861年)、「功利主義」(1861年)などの論考に関心が向けられることが多かった。……しかし、本書で「社会の科学者としてのミル」を論じるために検討されるのは1850年代以降に出版されたこれらの著作群ではなく、1820年代末から1840年代にかけての議論であり、とりわけ重視されるのは1843年に初版が出版された『論理学体系』である。『論理学体系』は16歳の時に著述活動を開始したミルが37歳の時に出版した最初の著作であった。いわゆる早期教育以来の彼の思索の成果がふんだんにもりこまれた『論理学体系』は、自身が『自由論』とともにもっとも長く残っていくだろうと自負した著作であったし、同時代の思想家にとって「この時代の私たちのもっとも重要な知的記念碑」と評すべき傑作であった。

……本書がたどるのは包括的な社会事象研究の体系を構築しようという、とりわけ1830年代から1840年代にかけて強く表明されていた、彼の意欲である。「意欲」という言葉が示唆するように、それは未完のままに終わった、いわば「失敗のプロジェクト」であった。したがって、本書の関心は体系そのものだけでなく、そのような体系を作り上げようとした彼の試みを跡づけることにも向けられる。彼の意欲的なプロジェクトを理解するための手がかりとなるのは、とりわけこの時期の彼がしめしていた歴史論や性格形成論に対する関心である。したがって、本書はこれまで十分に検討されてきたとは言いがたい彼の歴史論や性格形成の科学構想を検討することにも多くの紙幅を割くことになる。(1-5頁)
敢えて「失敗のプロジェクト」の骨を拾うという、なんともいさぎよい試み。

| | Comments (0)

«【近刊】齋藤純一・田村哲樹編『アクセス デモクラシー論』日本経済評論社、2012